コラム

タバコと放射能のどっちが危険か

2011年09月08日(木)11時42分

 小宮山洋子厚生労働相が「タバコの価格を1箱700円ぐらいに引き上げるべきだ」と発言したことが論議を呼んでいる。たばこ税を所管する安住淳財務相は「タバコだけを抜き出して税を議論するのはバランスを欠く」と反発した。野田首相も財務相時代に「タバコや酒を増税するのはオヤジ狩りだ」と反発したこともあり、簡単には行きそうにない。

 しかし小宮山氏もいうように、日本のタバコの価格が先進国の中で低いことは事実である。WHOのデータ(2009年)で見ると、調査した149ヶ国のうち1箱の価格が最高なのはノルウェーの11.48ドルで、税率は76%である。主要先進国7ヶ国(G7)ではイギリスが10.72ドル、カナダが8.05ドル、アメリカが4.79ドルなどとなっており、日本は2.82ドルで最下位だ(為替レートは1ドル=110円)。

 ただ、たばこ税はその後も引き上げられ、昨年マイルドセブンが300円から410円になった。これは5.32ドルだから、円高のおかげでアメリカを上回り、G7では下から2番目になった。小宮山氏のいう700円というのは9.09ドルだから、一挙にノルウェー、イギリスに次いで世界第3位になる。これはさすがに抵抗があるだろうが、彼女によれば「700円までは税収は減らない」とのことだ(根拠は不明)。

 問題は、小宮山氏もいうように税収ではなく、タバコが大きな健康被害をもたらしていることだ。厚労省の推定(2005年)によれば、 喫煙による年間の死者は男性11万2000人、女性1万9000人だ。これは喫煙によって肺癌になる確率が高まるためで、全死因の27.8%(男性)、6.8%(女性)を占める。

 こうしたタバコのリスクは、放射能に似ている。放射線も発癌率を高めることによって健康に影響を及ぼすからだ。しかし福島第一原発事故で放出された放射能によって増える死者は、高田純氏(札幌医科大学教授)によればゼロに近い。原発の周辺で行なった調査でも、ICRP(国際放射線防護委員会)の「年間20ミリシーベルト」という基準を上回った地域はなかった。放射性物質を体内に入れることによる内部被曝も、この程度の放射線レベルであれば健康に問題ない。

 医学的には、積算値で100ミリシーベルト以下の放射線被曝によって健康被害が出るという証拠はない。ICRPの1~20ミリシーベルトという年間放射線限度は「参考レベル」であり、実際にどういう基準を設定するかは各国の政府にゆだねられている。今回の事故では、政府が計画避難区域の基準を年間20ミリシーベルトとしたことが、一部で「人命軽視」だと批判されたが、1ミリシーベルトを基準にすると、全国の学校や幼稚園の砂場の砂を取り替えなければならない。これぐらいの放射線は日常的に存在するからだ。

「放射能とタバコは性格が違う」という人がいるかも知れないが、社会全体の健康リスクという意味では同じである。政府が「経済性に配慮して放射線基準を決める」というと、批判を浴びるが、すべての環境基準は経済性とのトレードオフで決まるのだ。「生命は経済より大事だからコストを無視してリスクをゼロにしろ」というなら、年間5000人が死亡する自動車も禁止しなければならない。

 今後、放射性物質で汚染された農産物の賠償や表土の除染には、数十兆円のコストがかかると予想されているが、それによって死者が減る効果は考えられない。他方、タバコ税を上げることにはほとんどコストがかからないが、これによって1割でも喫煙が減れば、年間1万3000人の生命を救うことができる。

 安住氏の言葉を借りれば、健康リスクが最大のタバコを放置したまま、放射能の問題だけを抜き出して大騒ぎするのは、政策としてバランスを欠く。タバコについてコストと利益のバランスを考えるなら、放射線の安全基準も経済性に配慮して再検討すべきだ。ヒステリックな感情論に流されて微量の放射能の除去に何十兆円もコストをかけるのは、社会的な浪費である。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米ウクライナ首脳、日本時間29日未明に会談 和平巡

ワールド

訂正-カナダ首相、対ウクライナ25億加ドル追加支援

ワールド

ナイジェリア空爆、クリスマスの実行指示とトランプ氏

ビジネス

中国工業部門利益、1年ぶり大幅減 11月13.1%
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「史上初の攻撃成功」の裏に、戦略的な「事前攻撃」
  • 2
    マイナ保険証があれば「おくすり手帳は要らない」と考える人が知らない事実
  • 3
    【銘柄】子会社が起訴された東京エレクトロン...それでも株価が下がらない理由と、1月に強い秘密
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 6
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」と…
  • 7
    「アニメである必要があった...」映画『この世界の片…
  • 8
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 9
    2026年、トランプは最大の政治的試練に直面する
  • 10
    素粒子では「宇宙の根源」に迫れない...理論物理学者…
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「史上初の攻撃成功」の裏に、戦略的な「事前攻撃」
  • 4
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 5
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 6
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
  • 7
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 8
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 9
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 10
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 3
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「…
  • 6
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 7
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 8
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 9
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 10
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story