コラム

「東京ドーム23杯分」の除染は本当に必要なのか

2011年09月29日(木)21時23分

 環境省は、福島第一原発事故で放射性物質に汚染された土壌を除去する作業の試算結果を検討会で示した。福島など5県で追加的な被曝線量が年間5ミリシーベルト以上の地域を除染する場合、必要な面積は最大で2419平方キロメートル、福島県の17.5%に当たる。表土を5センチメートルはぎ取るとすると、除去する土壌の量は最大で2879万立方メートル、東京ドーム23杯分に相当する。

 しかし、この計画は財政的に実現不可能だ。1979年から行なわれているカドミウムの除染は1630ヘクタールで8000億円かかったが、今回の除染面積はその148倍だから、118兆円以上かかる。年間5ミリシーベルトという基準は、何を根拠にしているのかよくわからないが、国の年間放射線量限度は、緊急時には20~100ミリシーベルト、平時には1ミリシーベルトである。これはICRP(国際放射線防護委員会)が1958年に決めた基準に準拠しているが、これには科学的根拠がない。

 そもそも日本の自然放射線量は全国平均で1.5ミリシーベルト、世界の平均は2.4ミリシーベルトであり、1ミリシーベルトというのは自然界の放射線量を下回る。これは原子力施設の中の放射線を管理する基準であり、人々が避難したり帰宅したりする基準ではないのだ。1ミリシーベルト以上の放射線は全国どこにでもあるので、これを基準にすると全国の土を除染しなければならない。

 多くの放射線医学の専門家が提唱する放射線の安全基準は、年間100ミリシーベルトである。広島や長崎の被爆者を調査した近藤宗平氏や高田純氏は、「100ミリシーベルト以下の被曝量で発癌率が増えた統計的証拠はない」として、ICRP基準を強く批判している。たとえば45℃を超える熱湯に手を入れるとやけどするが、それ以下の温度なら問題ないように、放射線の影響にも閾値があるというのが多くの科学者の意見だ。

 これに対してICRPは「100ミリシーベルト以下でも放射線の量に比例して発癌率が増える」というLNT仮説(線形閾値なし仮説)にもとづいて、科学的な根拠のない20ミリとか1ミリという基準を設定している。これについては世界の専門家の批判が強いが、IAEA(国際原子力機関)も日本政府も「科学的に決着がついていないので安全側に立つ」という立場を変えていない。

 もちろんコストがかからないのなら、安全基準はきびしければきびしいほどいい。しかし100兆円以上の除染費用を出すことは不可能だから、現実には政治的妥協がはかられるだろう。このとき「足して二で割る」ような基準をつくっても、被災者は不安になるばかりだ。年間100ミリシーベルトを基準にすれば、原発の敷地以外はほとんど除染の対象にならないだろう。

 最大の問題は、8万人以上の原発の周辺住民が、もう半年以上も不便な避難生活を強いられていることだ。1986年のチェルノブイリ原発事故では、強制退去を命じられた20万人が家を失い、1250人が自殺した。旧ソ連以外の欧州でも10万人から20万人が妊娠中絶したと推定されている。チェルノブイリ事故についての多くの報告書で共通に指摘されているのは、最大の被害は放射能の恐怖や長期にわたる避難のストレスによる精神疾患だということである。

 科学的根拠のない安全基準で必要もない避難生活を長期にわたって強制することは、被災者の生活をさらに悪化させ、風評被害を拡大するだけで、健康被害の防止にはつながらない。被災者の帰宅は、彼らの自由意思にゆだねたほうがよい。除染も年間5ミリシーベルトなどという無意味な基準で行なうのではなく、安全基準についての科学的な議論を徹底的に行なうべきだ。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

日経平均は反落、ハイテク株の軒並み安で TOPIX

ビジネス

JPモルガン、12月の米利下げ予想を撤回 堅調な雇

ビジネス

午後3時のドルは157円前半、経済対策決定も円安小

ビジネス

トレンド追随型ヘッジファンド、今後1週間で株400
MAGAZINE
特集:世界も「老害」戦争
特集:世界も「老害」戦争
2025年11月25日号(11/18発売)

アメリカもヨーロッパも高齢化が進み、未来を担う若者が「犠牲」に

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判殺到、そもそも「実写化が早すぎる」との声も
  • 2
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 3
    【銘柄】イオンの株価が2倍に。かつての優待株はなぜ成長株へ転生できたのか
  • 4
    中国の新空母「福建」の力は如何ほどか? 空母3隻体…
  • 5
    ロシアはすでに戦争準備段階――ポーランド軍トップが…
  • 6
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 7
    アメリカの雇用低迷と景気の関係が変化した可能性
  • 8
    幻の古代都市「7つの峡谷の町」...草原の遺跡から見…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    EUがロシアの凍結資産を使わない理由――ウクライナ勝…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 3
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR動画撮影で「大失態」、遺跡を破壊する「衝撃映像」にSNS震撼
  • 4
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 5
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 6
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 7
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 8
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 9
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 10
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 4
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 7
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 8
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 9
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 10
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story