コラム

私たちの内に潜む「小さなプーチン」──古典『闇の奥』が予言する、2023年の未来とは

2022年12月16日(金)08時44分


2020年春の新型コロナ禍の初期、国民を恐怖で威圧して相互の接触を8割削減させ、違反者を力で取り締まる「だけ」で危機は去るとする構想を、多くの日本人が歓呼で迎えた。そのとき私たちの内には確かに、科学の仮面をかぶった「小さなクルツ」がいたのである。

現下のウクライナ戦争でロシアを非難すべきは論を待たないが、単にNATOの支援を受けた火力で圧倒する「だけ」で問題が解決すると考え、スポーツ観戦めいた戦術談義ばかりがメディアを席巻する時、そこにいるのもやはりクルツであり「裏返しのプーチン」なのだ。

目の前の問題の「専門家」として持ち上げられ、いまならいかなる発言でも好意的に報じられる立場に置かれると、どんな人であれ内なるクルツが「私の提案にあらゆる力を委ねよ。それで混乱は収まる」とささやきがちだ。

しかし往年の旧統一教会のスキャンダル再燃に乗じて、政府は「まちがった」宗教を撲滅し「正しく」個人の内面を善導せよと説いた面々となると、もはや卑小さの底が抜けた「クルツもどき」の類であろう。

季節もののように入れ替わるそれらのトピックスの「奥」で、いま、世界に通底している問題の本質とは、なんだろうか。

私たちのニヒリズムである。人や社会がもっぱら「強制力」に頼ってなにかを解決しようとするとき、そこには必ず、人間への最重度の不信がある。

『闇の奥』のなかで、最初にそうした悪夢へと堕ちたクルツは、一時は思うままに権勢をふるったはずのこの世は「地獄(The horror)だ! 地獄だ!」と断ずる有名なせりふを叫んで、病死する。おそらくは、いずれプーチンが寿命を迎えるときも、同じだろう。

しかし1年以上の後、クルツの婚約者(先の引用文に言う「彼女」)と対面した主人公は、ついクルツの最期の言葉は「あなたのお名前でした」 とする、美しいストーリーを語ってしまう。歴史修正主義のはじまりである。

2020年代の最初の3年間をめぐって私たちが語り継ぐべきは、科学の知見で疫病と戦争に立ち向かったといった、綺麗な話ではない。いかに「力による解決」ばかりが羨望されるほどに、人間世界の相互不信がこの間深かったのかを、私たちは覚えていなくてはならない。

2023年に幕を開けるのは、忘却と審美化の双方が直近の過去に襲いかかる、嵐の季節であろう。その中で正しく「歴史」の記憶を保ち続けられるかどうかに、それがまだ「役に立つ」のかどうかが懸けられている。

プロフィール

與那覇 潤

(よなは・じゅん)
評論家。1979年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科で博士号取得後、2007~17年まで地方公立大学准教授。当時の専門は日本近現代史で、講義録に『中国化する日本』『日本人はなぜ存在するか』。病気と離職の体験を基にした著書に『知性は死なない』『心を病んだらいけないの?』(共著、第19回小林秀雄賞)。直近の同時代史を描く2021年刊の『平成史』を最後に、歴史学者の呼称を放棄した。2022年5月14日に最新刊『過剰可視化社会』(PHP新書)を上梓。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ロシア高官、和平案巡り米側と接触 協議継続へ=大統

ワールド

ゼレンスキー氏、和平巡る進展に期待 28日にトラン

ワールド

前大統領に懲役10年求刑、非常戒厳後の捜査妨害など

ワールド

中国、米防衛企業20社などに制裁 台湾への武器売却
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指すのは、真田広之とは「別の道」【独占インタビュー】
  • 4
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 5
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 6
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 7
    「時代劇を頼む」と言われた...岡田准一が語る、侍た…
  • 8
    「衣装がしょぼすぎ...」ノーラン監督・最新作の予告…
  • 9
    「個人的な欲望」から誕生した大人気店の秘密...平野…
  • 10
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 4
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 5
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 6
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 7
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 8
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリ…
  • 9
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 10
    懲役10年も覚悟?「中国BL」の裏にある「検閲との戦…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 3
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 6
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 7
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 8
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 9
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 10
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story