コラム

紛争の北アイルランドで抑圧された少女の内なる声

2019年02月13日(水)18時45分

70年代紛争下の北アイルランドで少女は不条理に縛られて生きる Cathal McNaughton-REUTERS

<安易なヒロイズムに駆られて殺しあう男たち――狭い社会の不条理な「基本ルール」に縛られる少女の心のうちをダークなユーモアで描いた2018年ブッカー賞受賞作>

2018年のブッカー賞受賞作『Milkman』は、受賞作が発表された時点ではまだアメリカでは出版されていなかった。それほど多くの人にとって意外だったのだろう。

ブッカー賞は世界で最も「文芸賞らしい文芸賞」とみなされていて、候補になる作品には難解なものも多い。このMilkmanもそのイメージを裏切らず、とっつきにくく、読みにくい。

まず、プロットらしいプロットはない。

そして、かなりの数がある登場人物には名前がない。主人公は「middle sister(真ん中の妹)」で、タイトルになっているMilkman(牛乳配達人)は、牛乳配達人ですらない。そこに、主人公の母が恋心を抱いている本物の牛乳配達人real milkmanまで登場するからややこしい。主人公が付き合っているが公式の関係にするのを避けているような「maybe-boyfriend(かもしれないボーイフレンド)」は、いつしか「(元かもしれないボーイフレンド)ex-maybe-boyfriend」になる。

登場人物に名前がないだけでなく、場所も時間も書かれていない。

だが、地元アイルランドやイギリスの読者だけでなく、1980年代にイギリスに3回住んだことがある私のような者にはこれが70年代の北アイルランド、ベルファストだとすぐわかる。読了後に作者のAnna Burnsについて調べたら、やはり私より2歳年下のベルファスト生まれの女性だった。

この小説に入り込みやすいように、背景を説明しておこう。

ベルファストがある北アイルランドは、1920年から「北アイルランドはプロテスタントによるプロテスタント国家」とする「アルスター統一党」政府が統治してきた。カトリック系の住民はプロテスタントの政府やプロテスタント系の住民から長年差別され、抑圧されてきた。そこに、差別されてきたカトリック系住民を守るためには武力行使も肯定するというIRA(アイルランド義勇軍)から分裂した「IRA暫定派」が加わり、血みどろの「北アイルランド紛争」にエスカレートした。有名な「血の日曜日事件」と「血の金曜日事件」が起こった1970年代のベルファストが、小説Milkmanの舞台だ。

主人公は歩きながら読書をすることが好きな18歳の少女だ。自分よりずっと年上のMilkmanから勝手にみそめられ、つきまとわれるようになる。牛乳配達人ではないがMilkmanと呼ばれるMilkmanは、テロ組織の指導者的立場にあるパワフルな存在でもあるようだ。自分が望まない相手から監視され、ストーキングされ、愛人関係になることをほのめかされる。彼女はMilkmanを嫌い、恐れているが、何もできないでいる。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

石破首相「双方の利益になるよう最大限努力」、G7で

ワールド

米中貿易枠組み合意、軍事用レアアース問題が未解決=

ワールド

独仏英、イランに核開発巡る協議を提案 中東の緊張緩

ワールド

イスラエルとイランの応酬続く、トランプ氏「紛争終結
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 7
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 8
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 9
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 10
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 5
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 9
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story