かつて「ドヤ街」だった山谷で開かれた野外音楽フェスで見たもの
36年前に山谷を取材したことがある
午後2時半から7時半まで、5時間にわたって盛り上がった「山谷住民のカーニバル」はついに幕を下ろした。参加者たちは名残惜しそうに玉姫公園を後にし、「山谷」も再びいつもの静けさを取り戻した。
実は、私が「山谷」に入って取材するのはこれが初めてではない。
36年前の1989年、日本にいる中国人留学生向けの新聞である「留学生新聞」の編集長を務めていたとき、山谷の労働市場、いわゆる「日雇い労働者の寄せ場」を取材で訪れたことがある。
80年代末期の日雇い労働者の寄せ場のピークであった「山谷」をリアルに反映したルポは、当時の中国語の『留学生新聞』第7号(1989年6月1日発行)に掲載された。
それを36年後の今、日本語に訳し、次回の第31話で初公開の予定だ。
[筆者]
趙海成(チャオ・ハイチェン)
1982年に北京対外貿易学院(現在の対外経済貿易大学)日本語学科を卒業。1985年に来日し、日本大学芸術学部でテレビ理論を専攻。1988年には日本初の在日中国人向け中国語新聞「留学生新聞」の創刊に携わり、初代編集長を10年間務めた。現在はフリーのライター/カメラマンとして活躍している。著書に『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(CCCメディアハウス)、『私たちはこうしてゼロから挑戦した──在日中国人14人の成功物語』(アルファベータブックス)などがある。
※編集部より:6ページ目掲載の写真3点を削除しました(2025年6月3日17:30)