最新記事

インタビュー

アパホテル書籍で言及された「通州事件」の歴史事実

2017年1月20日(金)15時49分
高口康太(ジャーナリスト、翻訳家)

――著書『通州事件――日中戦争泥沼化への道』は歴史研究者としての抑制的な筆致で、事件の背景、経過、影響を描写していた点が印象的です。既存の通州事件本とは一線を画している印象を受けました。

 通州事件は1980年代になって"再発見"されました。1985年に中国で南京大虐殺記念館がオープンしたことを受け、「それを言うならば中国人も日本人を虐殺したのではないか」と反論するために通州事件が持ち出されたわけです。同時に日本国内では「日本の侵略に抵抗するためだったのだから」と、通州事件を起こした保安隊を擁護する論も登場します。もともとは論壇の中の議論に過ぎませんでしたが、1998年のベストセラー、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』によって一気に認知度が高まりました。

 通州事件に関連する中国批判と擁護の構図は、1980年代から現在にいたるまでほとんど変化がないと言ってもいいのではないでしょうか。議論が深まればいいのですが、ほとんどが観念論ばかりで一次史料を丹念に調べた人はいません。保守の側から関係者の証言を集める動きはありました。そのこと自体は評価するべきですが、どうしても主観に影響されてしまう証言を歴史史料として扱うためには、他の史料との整合性を確かめる必要があります。

 言い換えるなら、これまで歴史学的な手続きを踏まえた通州事件研究はほとんどなかったのです。日中関係の悪化により通州事件がクローズアップされる機会が増えることは予測できましたので、ちゃんとした歴史学的な研究をする価値はあると考えて取り組みました。非公開史料の収集や分析、現地調査など始めてから10年近い時間がかかってしまいましたが。

「一次史料にとことん当たることが日本の利益になる」

――興味深いのは、事件直後の日本側の報道もプロパガンダの可能性があると指摘されている点です。

 中国側の反日宣伝に日本軍は頭を悩ませていました。通州事件の直前にも日本軍の銃撃で中国の民間人が多数殺されたとか、日本兵が天津租界で外国人兵士を殴打したとかいったデマが流され、日本政府関係者が対応すべきだと提起した史料が残されています。

 通州事件が起きた後には、日本軍の一部で通州事件を中国へのカウンタープロパガンダとして利用できないかという意見が出ました。この意見が採用されたのか、具体的にどのような手法が取られたのかを明示する史料は現時点では見つかっていませんが、当時の日本の新聞がある時点で急に「暴虐」「鬼畜」といったおどろおどろしい表現を使い出したこと、立ち入りが禁止されていた地域でおそらく軍が撮影したと思われる写真を掲載したことなどを考えると、宣伝工作の一環として通州事件が大々的に報道された蓋然性は高いと考えています。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

香港取引所、東南アジア・中東企業の誘致目指す=CE

ワールド

米ミネソタ州議員射殺事件、容疑者なお逃走中 標的リ

ワールド

IEA、石油供給不足なら備蓄放出の用意 OPEC「

ワールド

金価格約2カ月ぶり高値、中東紛争激化で安全資産に逃
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 7
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 8
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 9
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 10
    構想40年「コッポラの暴走」と話題沸騰...映画『メガ…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 5
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 9
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中