近しい人を見送るとき...母の最期に立ち会えなかった作家が「最期に立ち会えなくても大丈夫」と思えた理由
なるほど、あの母のことだ、ラーの大神にお願いするまでもなく、自分の病気は治ると信じていたのだろう......根拠もなく、楽観的に。「わたし、死なないから大丈夫よ」と断言していた母の陶然とした顔も、それなら理解できた。
母はかつて、「この世の真理を知りたい」という、訳がわかるようなわからないような理由で新興宗教にどっぷりとはまっていた時期があるのだ。それも一つに傾倒するのではなく、○○会というのに熱を上げていたと思ったら、あっさり冷めて、今度は○○メイトに熱狂して、そうかと思ったらそれも止めて、二つ、三つの新興宗教をかけ持ちしはじめたり。
最期の瞬間は自分で決めている
しかし、それでも本当に最期の最期で、母はちゃんと自分が死にゆくことを受け入れられたのではないかと、わたしは思っている。おそらく、昏睡状態に入ったあたり、さすがにこりゃダメだ、と理解できたのではないか。
というのも、母が亡くなったタイミングは、忙しい娘たちのスケジュール帳を見て決めたかのようだったからだ。
じつは母が亡くなる前日に、わたしが脚本を担当したドラマ『コートダジュールNo.10』の試写会があったのだが、数日前から母の意識はなくなっていたので、状況によってはそちらを欠席せざるを得ないだろうと考えていた。
はじめて任せてもらったテレビドラマの脚本だったので、仕事を完遂するという意味でも、できれば出席したい。が、そんなことを言っていられない状況でもあった。しかし母は危篤でありながらも安定していて、綱渡りのように一日、一日がすぎていき、なんとか試写会の日を迎えることができたのだった。
東京駅、次女からの電話
その翌日の午前中に、わたしは二人の子供を連れて母のもとへと急いだ。東京駅でお弁当を買おうと思っていたが、子供たちがパンを食べたいと言うので、東京駅の地下のベーカリーで昼食を調達することにした。