地元では東大卒より名誉だった ──【超名門・旧制第一中学】47都道府県の公立高校全一覧
授業の大切さや予習復習の重要性を説いた内容である。教える側には前身の旧制府立一中から教壇に立っているベテランがいる。大学入試に精通した受験指導のプロ、学問分野をきわめた教養人などがいた。1970-90年代、受験の英語で一世を風靡した『試験にでる英単語』の著者、森一郎氏はその代表格であろう。
なぜ一中に地域のエリートが集まってきたのか
もっとも、他校の進路指導教諭は冷ややかに受け止めていた。日比谷は各地域の中学の1、2番が集まってくる、そんな秀才たちは自分で勝手に受験勉強を先取りするから、日比谷の先生は楽なんじゃないか。日比谷だからこそそんなスタイルの授業でも東京大受験に対応できるのであって、そのやり方がどの高校にも通用するわけではない、と。
ではなぜ、日比谷のような一中に地域のエリートが集まったか。そこには歴史的な背景、学校の事情があり、下記の要因が考えられる。
(1)ブランド力 東大より一中
1949(昭和24)年に東京大入試が始まってから、その都道府県内で東京大合格者数1位をほぼ続けてきた学校がある。入試制度、学区の変更などに影響を受けなかったところだ。山形東、浦和は1位を譲ったことがない。盛岡第一、秋田、宇都宮、高松は1、2回トップを逃した程度だ。
私立や国立大学附属が圧倒的に強く県下トップにはなれないが、進学実績面で長く2番手のポジションを守る一中がある。地元で「名門校」としての存在感をしっかり発揮しており、これらも記しておきたい(カッコ内は私立、国立大学附属の東京大合格者数1位校)。
千葉(⇔渋谷教育学園幕張)、金沢泉丘(⇔金沢大学附属)、松山東(⇔愛光)、修猷館(⇔久留米大学附設)、鶴丸(⇔ラ・サール)などだ。
東大に進学するより価値があった
いくつかの学校は学校群制、通学区変更という政策でも受け入れ生徒の学力が大きく下がるということはなく、神童、天才、秀才たちが離れていくこともないまま一中のブランド力を維持できた。もちろん、伝統を継承してきた底力、時代の変化に挑んできた試みのおかげだが、地域の入試制度が一中を守った側面はある。
それを受けて、各中学校には、学年トップを一中に送り出すという不文律が引き継がれてきた。もっとも中学生天才児が一中ではなく、地方からも開成や灘に進むケースがあり、ブランド力は万全とはいえないが、一中が廃れるということはなかった。
また、いまでも都道府県、市町村の幹部に一中出身者が多いところがある。首長が一中出身というところも少なくない。知事では、岩手県・達増拓也(盛岡第一)、茨城県・大井川和彦(水戸第一)、新潟県・花角英世(新潟)、岐阜県・古田肇(岐阜)、和歌山県・仁坂吉伸(桐蔭)がいる。彼らはみな東京大出身である。
任期途中で病を得、辞職して闘病ののち亡くなった福岡県・小川洋(修猷館、京都大出身)も、大阪府知事、大阪市長をつとめた橋下徹(北野、早稲田大出身)もいた。一中出身者は知事選挙をうまくたたかえる。同校卒業生のネットワークが威力を発揮し、一中というブランドが特に効くからだ。