地元では東大卒より名誉だった ──【超名門・旧制第一中学】47都道府県の公立高校全一覧
父、祖父、曽祖父など先祖代々、旧制中学時代から一中に入学してきたという家系もある。彼らにすれば、たとえば東京大や東北大よりも盛岡第一高校なのであり、その威光が消えることはないのだ。
各都道府県に作られた「進学エリートコース」
(2)エリートコースの確立 番町小→麴町中→日比谷
1990年代まで、多くの地域では、通学できる範囲に制限のある学区制が敷かれていた。このため、特定の小学校と中学校を経て一中に進むケースが見られた。
1950年代後半から、高校進学率の上昇とともに、全国で教育熱心な親が現れた。子どもをなにがなんでも東京大へ行かせたい、という親の思いは、幼稚園、小学校選びから始まる。戦後の高度経済成長の恩恵を受けて世の中が豊かになったせいか、教育にお金をかけられる家庭が増えた。「教育ママ」ということばが普通に使われるようになった。
東京大、京都大や地元国立大学にもっとも多く入学する高校、そこにもっとも多く進学する中学校、そこにもっともにたくさん入れる小学校に通わせるため、各都道府県でエリートコースが作られつつあった(図表3)。
なかでも、もっとも有名なのが東京の番町小学校、麹町中学校、日比谷高校である。しかし、これらの小中学校に通うためには特定の学区に住まなければならない。そこで教育ママたちが考えたのは、学区内にアパートを借りて(または借りたことにして)住民票を移すことだった。越境入学である。
約6割が越境入学していた番町小学校
1959(昭和34)年、番町小は37%、麹町中は39%が学区外から通学していた(当時の新聞報道)。メディアは「よい学校」だから越境が増えると解説する。
「"よい学校"というのは、なんだろうか。上級校への進学率がいいということだ。番町小からは、まず、無条件に麹町中に進学できる。麹町中から日比谷高への入学者は昨年が41人、卒業生541人の1割以下にしかすぎないが、それでも他の中学の進学者数をはるかに上回っている」(朝日新聞1959年1月13日)
1965(昭和40)年になると、番町小学校の生徒数約1700人のうち約6割が越境入学といわれた。番町小に通う小学生について、こんな記事がある。
「総武線の上り電車はサラリーマンでほぼ満員。黄色い学童帽がドアの人がきをたくみにかきわけ奥へもぐりこんだ。〔略〕A君は番町小1年生。家族の話だと、ある区議の骨折りで通学区域にある代議士の事務所に寄留、この春入学した。「ぜひ、東大医学部へ......」という母親の声援を受けて毎朝6時起床、7時には自宅を出てひとりで電車に乗る」(朝日新聞1965年11月12日)
このまま「A君」が番町小を卒業し麹町中に進めば、同中卒業は1974年になる。だがこのころ、麹町、日比谷をめぐる風景は一変していた。