地元では東大卒より名誉だった ──【超名門・旧制第一中学】47都道府県の公立高校全一覧
たとえば、1963年当時の資料によれば一科目平均92.2点であり、他の都立高校よりも明らかに高い(『青山学院高等部 最近5年間入試問題と解説付東京都立高校最近3年間入試問題』東京図書、1963年)。なお、都立高校を受験するためには、都内で定められた学区の中学を卒業予定でなければならない。そこで、他県からその学区の中学に転校してくる教育熱心な家庭が出てきた。越境入学だ。これは後述する。
また、東京教育大学附属駒場中学(現・筑波大学附属駒場中)を卒業して日比谷に入学する秀才もいた。いまでは考えにくいことである。
「テストをたびたびすることは、自発的学習のじゃまになる」
東京大など難関大学に進むために日比谷に入りたい――。成績優秀な中学生の高校受験パターンとして、第一志望が日比谷、第二志望が開成、武蔵、麻布、早稲田大学高等学院、慶應義塾、東京教育大学附属(現・筑波大学附属)、東京教育大学附属駒場などの高校であることが少なくなかった(当時、武蔵や麻布では高校からの募集があった)。
1960年代前半、日比谷ではどんな授業を行っていたのか。同校の進学指導主任教諭が自著でこう記している。
「わたくしどもは、補習授業をしたり、超学年制をとったりすることが、高校としてまちがっているだけでなく、受験のためにも決してプラスにはならない、と信じています。〔略〕まず、本校ではテストの回数を極力減らしている〔略〕テストをたびたびすることは、自発的学習のじゃまになる」(加川仁『必勝大学受験法―――〈東大入学日本一〉の勉強法をあなたに』講談社、1963年)
ここで言及された「超学年制」とは、学年を超えて高校2年修了時に3年までの課程を修了させることである。先取り学習で、いまはめずらしくないが、当時はそれほど多くなく、東京大合格者数を急速に増やしていた灘高校などが採り入れていた。
日比谷は灘を「まちがっている」と批判したことになる。高校は受験予備校ではなく、日比谷はそんな野暮なことはしない、というプライドを持っていたのだろう。
教壇に立っていたのは教養人や受験指導のプロ
日比谷の別の教員は、1964(昭和39)年の東京大193人合格についてこんな談話を寄せている。
「東大の合格者数は昨年に比べ26名ふえたが、その理由は低調だった昨年の現役(ことしの1浪)が活躍したからであろう。事実、1浪合格者は89名から107名にのぼった。本校は現役の生徒には、受験のための補習授業はいっさい行なわない。学校での学習はいわゆる授業徹底主義で、1科目100分の授業をフルに活用する。わからないことは最後まで突っ込み、授業の内容は相当に深い。この授業徹底主義こそが、受験勉強としてもっとも大切なことであろう」(『螢雪時代』1964年5月号)
同年、東京大に合格した日比谷高校出身者は、通信添削の増進会(現・Z会)機関誌の座談会でこう話している。
「現代文は授業がたいせつだと思います。ぼくたちは、自分で一つの作品を選び、それを授業時間のとき、研究発表をするんです。生徒同士でやっているから、親しみもあって、先生がやるときよりも活発に質問が出る。そうしたことが力になりました」(「増進会旬報」1964年8月1日発行)