最新記事

出版

学術言語としての日本語

2018年8月23日(木)11時40分
待鳥聡史(京都大学大学院法学研究科教授)※アステイオン88より転載

そのような著作を成り立たせるには、書き手は自分の狭義の専門分野だけではなく、その両隣、あるいはさらに遠い分野まで十分に目配りせねばならない。その際に、日本語で書かれた学術書の知見は、書き手にとって信頼できる導きの糸となる。仮に日本語の学術書がないとすれば、十分なサポートを得ないままに不案内な分野について書くか、あるいは広がりのあるテーマについて書くことを諦めるかの選択を迫られる。これが質の低下につながることは明らかであろう。

もちろん、問題は新書というパッケージだけに起きるのではない。オンラインの解説記事や、あるいは本誌のような雑誌に掲載される一般読者を視野に入れた論文などでも、似たようなことが起きる。専門家が専門家以外の人に伝わるように書くために必要な作業は、いずれも共通しているからである。

そして、このような「専門家向け」と「一般向け」の両方の要素を持つ成果、あるいは両者をつなぐ成果こそが、日本の知的空間を維持してきたことは間違いない。日本社会においても、古典的著作の読書を基盤とする教養は既に死に絶え、一億総中流意識も過去の存在になりつつある。だが、現在起こっている事柄に対する認識や理解の基底部分を作りだしてきた共有知識が辛うじて残っているとすれば、それはこのような著作に支えられているのではないだろうか。

現在の先進諸国で目につくのは、存在しない根拠、あるいは極めて薄弱な根拠に基づいて繰り広げられる政治的対立である。そこには様々な背景的事情があるのは確かだが、少なくとも一因として、専門家向けの学術的成果が一般の人々に共有されづらくなっている知的状況があることは否定できない。トランプ大統領の虚言や暴言を非難し、それを信じてしまう支持者を嘲笑することは簡単である。だがそれは、専門家向けにひたすら純化することで最も先鋭的な発展を遂げてきたアメリカ社会科学の敗北であり、自らの学術的成果を専門外の人々に届ける努力を怠ってきた専門家に浴びせられた冷や水であることを無視すべきではない。

人文社会系の諸学、とりわけ政治学や経済学などの社会科学は、単に社会現象を対象とする科学であるというだけではない。科学の一分野であると同時に、社会との接点を持つがゆえに「社会科学」なのだ、という意識は、やはり必要だと思われる。学術言語としての日本語、より単純には日本語での研究成果公表をどう処遇するかは、科学の世界における自然淘汰に委ねておけば良い、という問題ではないのである。

【参考記事】京都市の大胆な実験

待鳥聡史(Satoshi Machidori)
1971年生まれ。京都大学大学院法学研究科博士課程退学。博士(法学)。大阪大学大学院法学研究科助教授、京都大学大学院法学研究科助教授を経て、現職。専門は比較政治・アメリカ政治。著書に『財政再建と民主主義』(有斐閣)、『首相政治の制度分析』(千倉書房、サントリー学芸賞)など。

当記事は「アステイオン88」からの転載記事です。
asteionlogo200.jpg



アステイオン88
 特集「リベラルな国際秩序の終わり?」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス

ニューズウィーク日本版 英語で学ぶ国際ニュース超入門
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2025年5月6日/13日号(4月30日発売)は「英語で学ぶ 国際ニュース超入門」特集。トランプ2.0/関税大戦争/ウクライナ和平/中国・台湾有事/北朝鮮/韓国新大統領……etc.

※バックナンバーが読み放題となる定期購読はこちら


今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米CIA、中国高官に機密情報の提供呼びかける動画公

ビジネス

米バークシャーによる株買い増し、「戦略に信任得てい

ビジネス

スイス銀行資本規制、国内銀に不利とは言えずとバーゼ

ワールド

トランプ氏、公共放送・ラジオ資金削減へ大統領令 偏
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 2
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    日々、「幸せを実感する」生活は、実はこんなに簡単…
  • 5
    ウクライナ戦争は終わらない──ロシアを動かす「100年…
  • 6
    インドとパキスタンの戦力比と核使用の危険度
  • 7
    目を「飛ばす特技」でギネス世界記録に...ウルグアイ…
  • 8
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 9
    悲しみは時間薬だし、幸せは自分次第だから切り替え…
  • 10
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 8
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 10
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中