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「体験格差」という言葉に覚える強烈な違和感

「体験格差」で大学入試などで富裕層に有利に働くという指摘も(写真は中国・重慶の科学博物館) Oriental Image/REUTERS
<大学入試の総合選抜などで富裕層に有利になるという指摘もあるが、もうそうだとしたらそれ自体が問題>
ここ数年、「体験格差」という言葉を耳にすることが多くなりました。経済格差が広がるなかで、テーマパークやコンサートに行ったり、キャンプなどの自然体験をしたりする機会が、富裕層の子どもに限られるという問題がまずあります。こうした格差、経験の格差というのは確かに良いことではありません。公的な助成やスポンサーによる援助、あるいは一定の基準での価格の割引や無償化というような配慮があってもいいと思います。
ですが、「体験格差」が問題になるのは実はそれだけではありません。大学などの入試でペーパー試験の一発勝負が減り、体験履歴などを評価する総合選抜が増えるにつれて、どうしても「体験格差」が出てしまうというのです。つまり子どもに国際経験や自然体験、社会経験などの機会を与えるという意味で富裕層が大きく有利になっているというのです。なかには、だから「ペーパー一発勝負の方が公平だった」という意見もあるようです。
こうした意味での「体験格差」という言葉には強い違和感を覚えます。多分、そのように入試において富裕層が有利になるという現象があるとしたら、そのこと自体が問題だからです。仮に入試の総合選抜において、富裕層にしか手の届かない体験だけが評価されているとしたら、これは深刻です。
総合選抜というのは、専門分野へのモチベーションの高さ、問題提起型の知性の萌芽、表現やコミュニケーションの潜在能力などを総合的に判定するものだと思います。その際に、例えば「親のカネで西海岸へ行って大谷選手の応援をしたついでに、自動運転タクシーを経験してイノベーションの重要性を知った」というものや、「シンガポールに旅行してIR(統合型リゾート)の成功や金融センターの隆盛を目の当たりにして国際化の重要性を知った」というような「経験」は、まあ評価されるのでしょう。
貧困や教育格差の「体験」も重要
確かに自動運転を実際に経験して、技術の現在位置や課題を認識するというのは、経験として意味はあると思います。国際金融都市の隆盛を見て、日本の現状に危機感を抱くのも良いでしょう。ですが、それ以上に「シングルペアレントの家庭に育って、長時間労働のできない労働者がどうして貧困に追いやられるのかを身を持って経験した」とか、「大学進学の少ない土地柄に育って、大都市圏との教養格差を痛感した」というような「経験」も極めて重要です。
これは、批判のための批判を商売にする社会運動家を育てようとか、地方へのバラマキを加速するのが正義だというような理由ではありません。そうではなくて「困難を経験した人間」だけが持っている「どうしても問題を解決しないと前進できない」というモチベーションや、社会やコミュニティーに対する批判的な観察力というのは、技術革新にも経済成長にも必要な資質だからです。
反対に、判で押したような平凡でカネで買える国際経験や自然体験、そんなもの「だけ」を総合選抜で評価していては、問題解決型の人材は育たないと思います。それこそ、カネのかかる塾社会を生き延びることも含めて、経済力がないと高い教育が得られないという教育格差の世襲が続いてしまいます。これはエリートの貴族化を招き、国家の判断を現状維持型へと歪めて、全体を不幸にしてしまうでしょう。
別に「出羽守」的な言い方をしたいとは思いませんが、少なくともアメリカの歴史の長い大学は「同じ成績」であれば「困難な環境で育ってきた人物」を優先して合格させます。それこそ、ハーバード大学などはホームレスの高校生を入学させるなど、苦労した経験を持つ若者を才能の原石だとして評価する伝統があります。
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