コラム

アラブ騒乱の元凶となった「ビデオ映像」の謎

2012年09月14日(金)10時14分

 イスラム教の創始者にして、最高の預言者であるマホメット(ムハンマド)を侮辱した「ビデオ」が「アメリカで制作された」という理由で、まずリビアで反米の騒乱が起こり、エジプトとイエメンに、更にはイスラム圏を中心に9カ国に飛び火しているようです。リビアでは、武装勢力によるロケット弾攻撃により駐リビアの米国大使が暗殺されるなど、暴力がエスカレートしています。

 しかし、この事件、何とも不可解です。問題のビデオの内容から、発生した暴力事件に至るまで全てが謎と言っても良いでしょう。

 まず誰が制作したかという問題です。当初の報道によれば、ユダヤ系の人物がカギを握っているというのですが分かりません。何故かというと、アメリカのユダヤ系、特にハリウッドの映画産業に関わっているユダヤ系というのは穏健リベラルがほとんどです。政治的には民主党であり、オバマの「アラブの春支持方針」にも反対していません。ですから、イスラム教を揶揄してムスリムの人々を怒らせる「ための」映画が、ハリウッドのユダヤ系から出てくるというのは不自然に思われるのです。

 13日に「国務省筋のリーク」としてワシントン・ポストが伝えたところでは、コプト派キリスト教徒のエジプト系アメリカ人がカギを握る人物として取り沙汰され、FBIが既に事情聴取をしたようです。コプト派に関しては、ビデオの冒頭で「原理主義者」に攻撃されたキリスト教徒の「医者一家」が「攻撃からエジプト警察が守ってくれない」とグチをこぼすシーンがあるなど、ビデオの中では「被害者=善玉」に描かれています。

 また、「アラブの春」の結果としてエジプトに「ムスリム同胞団系」のモルシ政権が成立したことで、コプト派は苦しい状況に置かれていることから、こうした「反イスラム」的なビデオに関与しているという「解説」が出るのも分からないではありません。

 ですが、エジプトのコプト派の状況は大変に厳しく、仮に彼等が背後にいるということになれば(ビデオの冒頭の暗示も含めて)直接的な危険が迫る可能性があるわけです。(既に脅迫があるという報道もあります)仮にアメリカに移民しているグループであっても、その厳しい状況に無神経であるわけはなく、どうも不自然に思われます。

 いずれにしても、役者だけでも数十人、これに加えてロケのセット、大道具、小道具、撮影、照明、音声、編集、デジタル処理、などもプロ級であり、プロジェクトに関与している人間は数百人になると思われますが、これだけの人が「主旨に賛同して」この「アンチ・イスラム」のビデオ制作というプロジェクトに参加したというのは不自然です。

 1つ考えられるのは、自発的な政治的表現としてビデオが作られたのではなく、何らかの諜報機関あるいはその周辺、いわゆる「インテリジェンス業界」が関与しているという可能性です。例えば、ワシントン・ポストの報道によれば、ビデオを監督したというカリフォルニアのコプト系の人物は、金融犯罪に手を染めたことのある人物だというのですが、仮に過去に金融犯罪に関与して金銭的に苦しんでいる人物に、何者かが接近して札束を見せながらビデオを作らせたということはあるのかもしれません。

 また、他の報道では、役者たちからは「自分はこんな主旨の映画とは知らなかった」とか「セリフを勝手に吹き替えられた」という声が上がっているそうです。ある女優は「2000年前の砂漠の世界を描いた」という話だと思って出演したが騙された、と言っているという報道があるのですが、通常の映画ではそんなことは考えられないので、非常に怪しいプロジェクトであることは間違いないでしょう。

 映画そのものも大変に不自然です。確かに「ムハンマド」は出てきますし、好色で好戦的な人物として描かれています。ですが、徹底的に揶揄するようなコメディ仕立てになっているのでもないのです。妙にシリアスであり、また役者も「ムハンマド」をはじめとして美男美女が多く出演していますし、演技も「大根」ではありません。

 つまり「アンチ・イスラム」の思想に凝り固まった人が「同じイスラム嫌いの人間」同士でコソコソ作り、コソコソ見て楽しむための作品ではないということです。一見するとストーリーのない「編集途中のビデオクリップ」であり、各シーンはそれなりに演出がされ演技がされているが、見て面白いものではない、そんな中途半端な内容なのです。そこに、イスラム教徒が激怒するような要素を入れて編集しているのです。

 ということは、例えばその女優の証言が本当であれば「全く別の主旨の映画」だと偽って、違う脚本で演技をさせ、その映像を編集過程でセリフを入れ替えたりして「アンチ・イスラム」のビデオクリップに仕立てたということ、また狙いとしては、明らかにイスラム教徒を挑発するのが目的で作られたと考えることができます。

 また、このビデオが騒ぎになったのが9月11日、つまり9・11のテロ事件の11周年という日であったこと、全世界向けの「ユーチューブ」で拡散したために、イスラム圏全体で騒ぎが起きてもおかしくないのに、「アラブの春」で政権が交代して不安定な、リビア、エジプト、イエメンの順で反米暴動が発生したことなども不自然です。そこには何らかの扇動者の関与が考えられます。

 仮にビデオの制作と、リビアなどでの扇動を含めて、「インテリジェンス業界」が仕掛けているとしたら、その背景にあるのはどんな勢力なのでしょうか?

 1つはイスラエル系のグループです。イスラエルでは、イランの脅威ばかりが取り沙汰される中で、成熟国家ならではの反戦運動の動きなどもあるわけです。そんな中で、「イスラエルの真の脅威はエジプト」だという立場から「コプト派の視点からのアンチ・イスラム」というビデオを突きつけることで「同胞団系のモルシ政権」は「原理主義」だということを暴露してやろう、そんな動機を持つグループが存在する可能性はあるでしょう。

 もう1つは、アメリカの保守派です。「イスラム教徒の父を持つオバマが、アラブの春などを支持」していることに怒りを感じ、「オバマやヒラリーの工作の結果がエジプトの原理主義化」だということになれば、オバマ政権を倒せるというような考えを持って、こうしたビデオで扇動してみたくなる、そんな勢力が存在するかもしれません。

 いずれにしても、まともな国や政党のやることではなく、「インテリジェンス業界」といっても、現役の諜報関係者ではなく、政治的に偏っていて何らかの資金源を持つ「一匹狼」的な勢力の行動と考えるのが妥当だと思います。

 では、この動乱でオバマは窮地に陥るかというと、案外とそうでもないのかもしれません。逆に「軍事外交に素人のロムニーでは危険」というキャンペーンを張ることも可能ですし、リビアに関しては「民主派は味方、アルカイダは敵」というロジックで押し通すこともできると思います。そのオバマはリビア沖に海軍と海兵隊を急派しました。いずれにしても、当面はエジプトの情勢が沈静化するかを見守りたいと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

FRBは利下げ余地ある、中立金利から0.5─1.0

ビジネス

米ワーナー、パラマウントの買収案を拒否 ネトフリ合

ビジネス

企業は来年の物価上昇予測、関税なお最大の懸念=米地

ビジネス

独IFO業況指数、12月は予想外に低下 来年前半も
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:教養としてのBL入門
特集:教養としてのBL入門
2025年12月23日号(12/16発売)

実写ドラマのヒットで高まるBL(ボーイズラブ)人気。長きにわたるその歴史と深い背景をひもとく

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入ともに拡大する「持続可能な」貿易促進へ
  • 4
    空中でバラバラに...ロシア軍の大型輸送機「An-22」…
  • 5
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 6
    ミトコンドリア刷新で細胞が若返る可能性...老化関連…
  • 7
    【銘柄】「日の丸造船」復権へ...国策で関連銘柄が軒…
  • 8
    【人手不足の真相】データが示す「女性・高齢者の労…
  • 9
    身に覚えのない妊娠? 10代の少女、みるみる膨らむお…
  • 10
    「住民が消えた...」LA国際空港に隠された「幽霊都市…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出を睨み建設急ピッチ
  • 4
    デンマーク国防情報局、初めて米国を「安全保障上の…
  • 5
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 6
    ミトコンドリア刷新で細胞が若返る可能性...老化関連…
  • 7
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 8
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の…
  • 9
    【クイズ】「100名の最も偉大な英国人」に唯一選ばれ…
  • 10
    香港大火災の本当の原因と、世界が目撃した「アジア…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 7
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 8
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story