コラム

革命が脱宗教だった欧州のプロセスはどうして普遍的にならないのか?

2011年01月31日(月)14時23分

 週末に、メトロポリタン歌劇場でプッチーニの『トスカ』を観る機会がありました。イタリアオペラを代表すると言っても過言ではないこの作品ですが、内容は「恋と殺人、革命と流血」を題材とした演歌調のメロドラマであり、通俗なストーリーとメロディーが満載のエンターテインメントに他なりません。ですが、非常に難しい歌唱を要求する作曲技法のために、実際に演奏されると素晴らしい芸術に昇華してしまう魔法のような音楽だとも言えます。今回は表題役がソンドラ・ラドヴァノスキー、相手の画家カルバドッシがマルセロ・アルヴァレスという発展途上の歌手だったのですが、私は十分に楽しみました。

 ただ、オペラが進行する中で、同時進行形で進んでいるエジプトでの反政府運動の行方がどうしても気になったのも事実です。『トスカ』は、1900年の作曲で、この時点では既にサルジニア王国を主体としたイタリア統一が終わっており、独立革命が正統となった時代です。オペラの設定としては、王党派+教皇派が悪玉に、ナポレオンの進撃に期待をかけた革命派が善玉となっていて、ナポレオンの存在が南イタリアでの革命思想を刺激したという彼等の「革命のルーツ」が一応は反映された形となっているのです。

 例えば、この『トスカ』でカトリック教会が腐敗した警察と癒着した存在とされているのは、1900年当時のイタリア王国が教皇の支配するローマを首都に定めるなど、教会との対決姿勢を強めていたことが背景にあると思います。その精神的なルーツは、「教皇でなく自らの手で戴冠して脱教会を行動で示した」ナポレオンの存在があったという点は重要だと思います。フランス革命以降の歴史の中で、ナポレオンという存在は独裁者イコール反動という評価も可能ですが、彼をも一人の役者として数えた壮大な王政から共和制というドラマの中では、政治の世俗化、つまり脱教会、脱宗教という問題があったわけです。

 一方で、現在のエジプトに関しては、勿論本稿の時点ではムバラク政権の行く末は全く予想もできないのですが、基本的には「ムバラク=富裕層の利害=世俗主義」というイメージがあり、これに対して「反政府運動=貧困層の利害=アイデンティティとしてのイスラム回帰」という構図があるようです。アメリカではそのエジプトの最大野党である「ムスリム同胞団(英語ではムスリム・ブラザーフッド)」のことを、まるで過激なテロリスト集団のように思っている人も多いようですが、政権奪取の構想は基本的に非暴力だという理解で良いようです。ただ、イスラム法に基づく政治を主張しているという意味では原理主義のカテゴリに属するのは間違いありません。

 ちなみに、エジプトというのは、オバマ=ヒラリーの外交政策にとっては要となる存在です。難航している中東和平の交渉がそれでも続いているのは、昔の中東戦争当時とは違って、エジプトがイスラエルの存在を認めつつこの問題への関与を自制しているからです。また、近隣のリビアやスーダンの問題が大きなトラブルにならないでいるのも、エジプトの安定ということが大前提になっているわけです。何よりも、とかく不安定化しやすいイスラム圏の非産油国でありながら、100%ではないものの民主政体が長く続いているという点はアメリカの中東政策の中で大きな意味があります。

 従って、仮に非暴力的な政権移行であっても、エジプトがムスリム同胞団的な原理主義にシフトするということは、この地域の大激動を誘発する可能性がある、そんな恐怖感があるわけです。先週のNY株式市場が大きく下げたのは決して「調整の口実が欲しかった」からではないように思います。本稿の時点では、反政府運動を率いた形のエルバラダイ氏がムバラク大統領に強く退陣を迫っていますが、まだまだ情勢は流動的ですので、このエジプト情勢に関する言及はこのぐらいにしておきます。

 ただ、どうしても気になるのは、先ほどの『トスカ』が象徴する宗教と政治と革命の問題です。どうして、イスラム圏では開発独裁型の政権が世俗的であって、それに対する民衆の反抗が宗教的という形を取りがちなのでしょう? 個の尊厳や自己決定権に明らかに制限をかけ、他宗教には非寛容であり、ヒューマニズムに反するような応報刑を適用し、場合によっては激しい性差別を伴うこの原理主義を、どうして民衆は自ら選択してしまうのでしょうか? 民衆の側にイスラム法支配からの脱却を望む声が
上がってゆく中で、イスラムの持つ禁欲的で敬虔な思想の純粋な部分は大事にしながら、非人間的な部分を克服するような「宗教改革」がコーランの信仰の中から生まれないのはどうしてなのでしょう?

 恐らく2点指摘できると思います。1つは、例えばエジプトやパキスタンなどの世論の場合、「脱宗教の世俗的な民主主義」というものが欧米で実現しているとして、その「世俗的な民主主義」は自分たちには敵対しているということがあると思います。欧米は自分たちの利害代表としては「途上国型独裁政権」を後押しし、その政権は決して民主的ではないばかりか貧富の格差を拡大するような政策を採って来るわけで、民衆としてはそうした「欧米の利害を代表する世俗政権」には全くシンパシーを感じないということになります。そうした政治と宗教の力学の結果として、自分たちの誇りを守るのは原理主義だということになるわけです。

 もう1つは、イスラムの禁欲性や厳格な秩序志向といったカルチャーの問題です。元来は「仲間割れは全員の死を意味する」ような砂漠の厳しい自然の下で、全員の生存のための「知恵」として編み出されたものだと思われますが、社会や技術の進歩によって「全員の死」というものが遠のいた現代のイスラム大都市においても説得力を持っているのは何故なのでしょうか? それは、格差の激しい社会においては、貧困層が現実に耐えながら生き延びてゆくための知恵として、禁欲性や秩序志向というものが、砂漠同様に機能してしまう、つまり人々のある種の精神的な支柱となり得てしまうということがあると思います。ある種の必然ではあるのかもしれませんが、決して幸福なストーリーゆえではないと思われます。

 非常に単純化して言えば、イスラム原理主義とは米英を中心としたキリスト教国が、オスマン帝国が崩壊をはじめた過去150年にわたって、延々とこの土地において、利己的な二重基準を用いて活動してきたことの裏返しなのだと思います。民衆の意に反して、世俗的な独裁政権を後押しし続けることで、逆に民衆を反欧米的な原理主義へと追いやってきたのです。今回のエジプトでの革命前夜的な動きが、こうしたイヤな循環の繰り返しにならないようにと願わざるを得ません。人々が自らの手で格差にブレーキをかけるような公正な政権を立ち上げてゆき、それが多様性や異なるものへの寛容さという点で、開発独裁よりも前進しているという姿を見たいものです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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