コラム

「減速生活者(ダウンシフターズ)」のリアリティとは?

2010年12月13日(月)11時57分

 アメリカ人というと、とにかく量の拡大を競うばかりというイメージがありますが、その一方で「拡大志向から下りる」というカルチャーもあります。一番の例は「ハッピー・リタイアメント」という文化で、できるだけ若いうちに「働かなくても食っていける」だけの資産を築いてリタイアするのが理想とされています。

 その場合に「食っていける」というのは、現役時代の浪費生活を死ぬまで続けるという意味ではありません。リタイアメントライフという中には、しっかり生活と消費の「スローダウン」が入っていて、多くの人はそれでストレスから解放された、つまり「減速」に価値を見出しているということはあると思います。

 減速という選択は、何もリタイアの時だけではありません。例えば、博士課程で頑張っていたがどうしても論文がまとまらないので大学教師ではなく、高校教師として若い人を指導することにしたとか、ウォール街での「戦い」に疲れたので地方都市に移って税務コンサルタントを開業したというような「減速」をする人は多いと思います。家族との時間を大切にしたいということで、キャリアの頂点で突然引退するスポーツ選手や芸能人の場合も「減速」の一種だと言えるでしょう。

 ですが、こうした「減速」の多くはいわば「マイナスの選択」です。つまり社会の「主流」には拡大至上主義の思想があって、あくまでその裏返しとしての、あるいは「ささやかなアンチ」としての「減速」に過ぎないように思われます。

 ところが、今回、高坂勝さんという方による『減速して生きる、ダウンシフターズ』(幻冬舎刊)という本を読んで思ったのは、この高坂さんの思想は「拡大」を裏返したり補ったりするだけの「減速」ではなく、「減速」それ自体が思想として成立する非常にユニークな考え方だということです。以降は、この本についての書評めいた書き方になりますが、本を通じてさまざまな議論を広げていく一助になればと思います。

 高坂さんは、大手百貨店のトップセールスとして忙しい生活を送っていたのですが、30歳を過ぎて年収600万円に達したところで突然退社、世界を放浪した後に小さなバーを開店します。そのバーは、オーガニック食材、手作りのインテリアなどのこだわりと共に、「忙しいだけのランチ営業はやらない」「回転率よりお客との対話」「週休2日と季節ごとの長期休業」など「減速」の思想で貫かれており、ささやかながら健全で安定した経営ができているのだそうです。

 こう簡単に紹介してしまうと、それこそアメリカの例と同じように、日本の長時間労働や会社組織のストレスに対する「アンチ」に過ぎない、そんなイメージを与えてしまうかもしれません。ですが、高坂氏の思想はそうしたレベルを通り越して、もっと先へ行っているように思います。それは2つの点です。

 1つは、この「減速思想」の裏にはかなり徹底した合理主義があるということです。偏屈なオヤジがこだわりだけの営業をしているのではないのです。例えば、高坂さんの店には掃除機とヤカンがありません。というのは、6坪の狭い店では収納場所を考えるとホウキとちり取りの方が効率的であるし、お湯を沸かすのは鍋で十分であり、ヤカンのような3次元の空間を占有してしまう道具は不要というのです。

 更に徹底しているのは、規模に関する思想です。必要な生活費から逆のコスト計算をして目標売上額を決定したら、その売上額を「オーバーしてはいけない」のだというのです。売り上げが過剰になれば、そのための投資が必要になり、気がついてみたら持続可能性という意味では危険な経営になってしまうからだというのです。

 この辺りの合理性というのは、企業経営にも十分に当てはまる思想だと思います。高坂さんの店とは規模が違いますが、マスの外食産業の場合は、シェア争いが価格の引き下げ競争のエスカレートを招く中、業界全体が破滅的な状況に向かっているわけで、そのことを考えると高坂さんの指摘の持つ「合理性」は大切だと思います。私は個人的にはバランスシートの左右をダイナミックに使った経営も必要と考える人間ですが、十分に説得されました。

 もう1つは、「減速」というのが敗北でもなければ、簡素化でもないし、退行でもないということです。売れすぎないようにするとか、ランチをせず週休2日などというのは、量という概念からだけみれば「引き算」ですが、実はその中に前向きな価値がたくさん含まれているのです。例えば、お客さんとのコミュニケーションだとか、料理の質から来る満足度、そして固定客を確保していることから来る経営の安定というような「質」の評価で考えれば、年商1000万に満たない(ようです)6坪のバーが示すレベルは大変に高いのではないでしょうか?

 それは「思想」とか「感性」といった金銭価値では図れない部分に豊かさがあるだけではないように思います。正しい意味での経済合理性によってしっかり経営と生活の基盤が確保されている中で、金銭的な価値で置き換えられるモノと、置き換えられないモノの「接触面」が活性化されているということなのです。

 つまり「減速」という思想は「不活性化」ではなく、活性化なのです。それは「規模の拡大」が実は極めて非合理的であり、時には思考停止だということを暴き出すと共に、経済的な価値だけを優先する考え方が実は経済的な成功を内部から腐敗させるという、近代の「合理主義」が行き着いた袋小路からどう一人一人が再生していくかを具体的に示しているということです。

 1つ欲張ったことを言わせていただくと、この高坂さんの「独自の合理性」を育んだのはやはり大企業での終身雇用システムにおける職務経験が背景にあるのだと思います。だとすれば、その外部には「第二、第三の高坂さん」を育てるシステムをこの社会は持っていないという問題があります。次作では、こうした「減速カルチャーが普及、再生産」される「持続可能なしくみ」への提言を期待したいところです。

 いずれにしても、各ページに新たな発見があり最後まで一気に読まされました。一読をオススメします。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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