コラム

イチローにとって、来季こそ最後の「変身チャンス」なのでは?

2010年09月24日(金)11時27分

 それにしても、最後の2本は素晴らしい当たりでした。10年連続200安打という記録は、何よりもコンディション維持のための努力の結果であり、そして強靭な精神力の具体化でもあり、どんなに賞賛しても行き過ぎということはないと思います。私は、ここ数年間、安打記録より優勝をという価値観でイチロー選手を見ていましたが、そうは言っても今回の達成に関しては素直に認めるしかないと思っています。

 特に今年の場合は、所属するマリナーズが早々にペナントレースから脱落してしまい、ガラガラの球場の中での戦い、これはキツかったと思います。勝利に集中するムードとは別のベンチにいながら、孤独に記録と向きあうというのは大変な苦行だったと思いますし、あえて申し上げるならば「それでも記録に期待する」日本のメディアの「温度」と、寒々とした球場やベンチの「温度」の差を一身に背負わなくてはならなかったというのは苦痛以外の何物でもなかったのではないでしょうか。

 とにかく、今季はメジャー10年目にしてイチローとしては最悪のシーズンでした。球団としては、巨額の資金を投入して補強を行い、今年こそプレーオフ進出をという姿勢で臨んだのは間違いなく、シアトルの地元のファンも、多くの評論家も「今年のマリナーズはやってくれる」という雰囲気で充ち満ちていたのです。ところが、フタを開けてみればオールスターを待たずして実質的には「終戦」となり、高給で迎えた絶対的な左のエースのクリフ・リー選手は早々にレンジャースに放出することになりました。このリー放出事件が7月で、以降は延々と消化試合が続くことになったのです。ワカマツ監督の解任劇は当然だったとも言えるでしょう。

 何が悪かったのかというと、最大のミスはエンゼルスから走攻守に優れた1番バッターのショーン・フィギンス選手を獲得したことです。そもそも、このフィギンス獲得に関しては、戦略的な主旨が不透明でした。「不世出の1番バッターであるイチローという存在がありながら、どうしてフィギンスを獲得したのか?」という点に関しては、フィギンス獲得が決定してからシアトルのメディアを騒がせ続けたのです。私の見るところ、球団首脳は(1)イチローの故障などに備えた1番バッターのバックアップ、(2)安打数という「宿命」を背負ったイチローは出塁率が低いので、2番のフィギンスを攻撃の起点にできるダブル1番構想、(3)長打も打てるイチローを3番に据えてフィギンスを1番に・・・というような複数の意味合いを考えつつ、サッサとサインだけしてしまったようです。

 実は今季の始まる前に、シアトルのコアな野球ファン(古い話ですが、イチローよりも大魔神が好きだったというような)の間では、フィギンスを獲得した以上はイチローは3番でという(3)の構想を支持する声がかなりありました。ですが、最終的には、イチローとしては「10年連続200安打」の束縛から逃げるわけにもいかないので1番で固定され、フィギンスは2番で起用されたのです。そこで(2)の「イチローが凡退したら攻撃の起点に」という意識を持てれば良かったのですが、フィギンスはそうした目的意識もないままにズルズルと不調に陥って行きました。

 フィギンスが不調に陥ったのには、2番としてイチローの盗塁を助けるのが苦痛だったということもあるようです。自分がオールスターにも選ばれた1番バッターとしてプライドも高かったフィギンスは、イチローの走塁を考えて好きなカウントで打てない状況にうまく適応できずに、シーズン前半は打率1割台というひどい低迷に陥りました。結果的に、5月の時点でもうマリナーズには「今季はもうダメ」という雰囲気が漂っていたのですが、その「戦犯」の筆頭にはフィギンスの名前が挙げられていたのです。彼は、どんどん精神的にも追い詰められていき、それがワカマツ監督(当時)との確執という形になっていきました。7月末にはカットオフの怠慢プレーを注意されたフィギンスがベンチ内で監督を罵倒するという醜態にまで発展したのです。

 イチローに取っては、実はフィギンスを巡るこうしたドタバタは、自分の立場を良くする効果があったのです。まず、何と言っても「一番打者」として自分のほうが格上だということを見せつけたこと、そしてチーム不振の「戦犯」という批判が自分に回ってこなかったということもあります。ある意味で、フィギンスが「悪役」を一身に引き受けてくれたことで、イチローとしてはとにもかくにも消化試合の中でも「記録」を追いかける自由を手にしたということも言えるでしょう。今季のようなひどい結果の中で、その責任が自分のところに来ていたら、200安打どころか、セーフコでの主催ゲームでは常にブーイングの対象になっていたかもしれないからです。

 ちなみに、ワケも分からぬまま悪役になっていたフィギンスは、犬猿の仲であるワカマツ監督が去った後は、(イチローに盗塁のサインがあまり出なくなったこともあって)2番バッターとして打率を上げてきています。またフィギンス自身は、多くの過去のマリナーズの2番から5番の打者がそうであったような、4ボールを選ばない(記録の縛りから選べない)イチローへの悪感情はなく、今では彼のことを尊敬しているらしいのです。そんなわけで、イチロー選手としては、イヤな人間関係に最悪の形で巻き込まれることもなく、今回の記録達成を迎えたわけです。

 ですが、イチローにとって最悪のシーズンだったことは間違いありません。記録達成を通過した今、イチローもファンも来季を見据える時期になりましたが、仮に取り沙汰されている「イチローの理解者」バレンタイン監督が来るにしても、他の誰かが来るにしても、来年こそは記録の束縛から逃れて「堂々と四球を選び、高出塁率を誇る」中で、史上最高の一番打者としてチームを牽引すべきだと思います。結果的に200安打の連続記録は止まっても、来年こそは球団結成以来の悲願であるワールドシリーズ出場を目標に、すべてを切り替えて欲しいと思います。この永遠に歴史に残るであろう大打者の履歴書にはそんなシーズンが1つはあって良いと思うのです。年齢的にも積極的な「変身」を遂げるには、それほど時間は残されていないということもあります。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

OPECプラス、7月以降も増産継続へ 自主減産解除

ワールド

バチカンでトランプ氏と防空や制裁を協議、30日停戦

ワールド

豪総選挙は与党が勝利、反トランプ追い風 首相続投は

ビジネス

バークシャー第1四半期、現金保有は過去最高 山火事
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得る? JAXA宇宙研・藤本正樹所長にとことん聞いてみた
  • 2
    【クイズ】世界で2番目に「軍事費」が高い国は?...1位はアメリカ、2位は意外にも
  • 3
    古代の遺跡で「動物と一緒に埋葬」された人骨を発見...「ペットとの温かい絆」とは言えない事情が
  • 4
    脂肪は自宅で燃やせる...理学療法士が勧める「3つの…
  • 5
    野球ボールより大きい...中国の病院を訪れた女性、「…
  • 6
    日々、「幸せを実感する」生活は、実はこんなに簡単…
  • 7
    シャーロット王女とスペイン・レオノール王女は「どち…
  • 8
    「2025年7月5日天体衝突説」拡散で意識に変化? JAX…
  • 9
    インドとパキスタンの戦力比と核使用の危険度
  • 10
    「すごく変な臭い」「顔がある」道端で発見した「謎…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得る? JAXA宇宙研・藤本正樹所長にとことん聞いてみた
  • 4
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    【クイズ】世界で2番目に「軍事費」が高い国は?...1…
  • 8
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 9
    古代の遺跡で「動物と一緒に埋葬」された人骨を発見.…
  • 10
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 10
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story