コラム

グーグル「中国市場から撤退も辞さず」宣言には成算はあるのか?

2010年01月15日(金)14時57分

 今回のグーグルの「中国市場からの撤退も辞さず」宣言は、様々な文脈から考えて、どうしても避けられなかった事態だと思います。波風を立たせることなく、ズルズルと上海万博の長丁場が「スムーズに」運営され、現在のような言論統制のまま更に経済成長が進んで、2013年に胡錦濤体制から習近平(もしくは李克強)に権力が継承されるなどというシナリオには無理があり、何らかの形でこの間に社会的、文化的な「ソフトランディング」が必要だからです。「ソフト」な形での民主化、自由化が不可能なまま問題が先送りされれば、それだけ「ハードランディング」の可能性が強まります。その場合に、直接火の粉を浴びるのは地理的に近い日本と経済的に近いアメリカであり、こうしたシナリオは何が何でも避けねばならないからです。

 大局的に見れば、そうした文脈から「アメリカが中国を刺激した」と見ることができます。英国Financial Times(アジア版)の報道によれば、今回のグーグルの「措置」は米国当局と十分に相談の上だというのですが、恐らくその通りでしょう。これまでも、米中の間には例えば「タイヤ摩擦」などがありましたが、今回のグーグルの1件は、単に貿易不均衡の問題ではなく、言論の自由とプライバシー保護という「国のかたち」をかけた論争であり、アメリカはこうした問題における中国の軟化を強く促しているということができます。メッセージはかなり強いものですが、あくまで「憎い中国を懲らしめる」のではなく「適切な刺激を与えて軟化を促す」という姿勢と理解するのが正しいでしょう。

 アメリカの政府あるいは業界としてはそうした観点を持っていると思いますが、グーグルに関して言えば、もう少し具体的な動機があります。これまで中国の検閲や統制に淡々と従ってきたこの会社がどうして「撤退も辞さず」という宣言に追い込まれたのかというのには、政治的以前にビジネス上の動機があるのです。何といってもタイミングがそれを物語っています。ラスベガスでのCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)が終わり、ITビジネスにおける戦いは新しい次元を迎えているからです。「ブラックベリー」が先行し、これをiPhoneが発展させた「スマートフォン」市場で、グーグルは「ネクサス・ワン」を大々的に展開し始めました。

 この「ネクサス・ワン」とiPhoneの戦いですが、表面的には独自アプリが多いのはどっちだとか、携帯キャリアを特定せずに端末を直売するマーケティングへの賛否などの問題があります。ですが、深層にあるのは「携帯」とか「スマートフォン」ビジネスの「パラダイム転換」なのです。グーグルは端末という「モノ」や携帯の加入契約という「通信料」を収益の柱とは考えていません。使用履歴の詳細を加入者ごとに集めて、加入者の購買履歴、アクセス履歴を詳細に分析して、クライアントに対して「完全個別対応」の広告を売ってゆく、これが彼等の目的です。フランス料理店のサイトにアクセスした回数の多い人に、別のフランス料理店の広告へ誘導する、更にその人がアルコール好きならフランスのワインを売っていく・・・そうしたマーケティングを緻密に、しかも本人はあまり嫌がられないようにやっていく、これが彼等の戦略です。

 そう申し上げると、それではグーグルの行っているのは中国当局の監視とソックリではないかという声が聞こえてきそうです。確かに、グーグルは消費者一人ひとりの属性、それも性別や出身地といった静的な属性だけでなく、購買履歴、閲覧履歴を分析し抜くことで消費者個々の「将来の消費の可能性」を統計的に組み立てて、クライアントに売って行く、正に本人の知らないところでデータが丸裸にされるのです。その真相を知れば、気味が悪いとか自分のことは知られたくないと思う人が出るのは当然でしょう。

 ですが、こうしたグーグルのビジネスモデルがどうして西側諸国では「許容される」のでしょうか? それは、グーグルが、顧客1人1人の個人情報に関しては、ほぼ絶対的な保護を行っているからです。グーグルの競争力は表層としては自社サイトでのネット閲覧時間を確保することであり、その奥ではそれを広告ビジネスに結びつけていますが、更にその深層では情報管理技術で個々のプライバシ−を厳格に守っている点にあります。このプライバシー管理技術の先進性が、グーグルへの社会的信頼に直結するからです。

 今回グーグルの「堪忍袋の緒が切れた」背景には、グーグルが顧客に提供するサービスの中核に位置づけているGメールという無料電子メールサービスのセキュリティが破られたという問題があります。グーグルとして、この問題を放置することは会社の存亡に関わるのです。中国だけでなく、世界中での利用者の信頼を裏切ることになるからです。ですが「人権活動家のメール履歴」を閲覧しょうとしてクラッキング行為を行った犯罪行為に関して、中国政府は捜査の協力を拒否しています。真相は明らかにされてはいませんが、クラッキング捜査の代わりにメール内容の提供を要求しているのか、あるいはクラッキング行為の背景に当局が関与しているとしか思えないわけで、いずれにしてもグーグルとしてはこの状況は放置できなかったのでしょう。

 日本では「これまで中国とうまくやってきたグーグルがどうして巨大市場を失うリスクを冒したのか?」という反応が多いようです。ですが、こうした情報やコミュニケーション産業の場合は、サービスがある一定の複雑さを越えていった場合に「プライバシーの保護」「言論の自由」といった問題に直面してしまうのは避けられないのです。情報流通がスムーズに整然とした秩序を持つためには、統制があってはダメだからです。今回の件は「ノンポリであるべき経済界」が政治に巻き込まれたのではなく、経済活動であってもそれが個人のコミュニケーションに深く踏み込んだものであれば、情報流通のインフラとしての自由や人権といった概念が避けて通れないことを示しています。

 もしかしたら、この問題は中国における通信やメディア産業のあり方を問い直す方向で拡大するかもしれません。その際に、自由化へ向けての「建設的な混乱」の中から「新しい可能性」が出てくるというシナリオも十分にあり得ると思います。万博の長丁場を乗り切るには「統制」より「秩序ある自由化」を、そんな賢明な選択を中国が取るのであれば、「米中蜜月」はより強固になるかもしれません。骨の髄までノンポリ体質の染み付いた日本経済には、こちらのシナリオの方が恐怖かもしれません。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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