コラム

戦後のレニングラード、PTSDをかかえた元女性兵たちの物語『戦争と女の顔』

2022年07月15日(金)17時11分

主人公の中にある男性と女性という視点

バラーゴフは台詞や説明的な表現に頼ることなく、状況を積み重ねていく。そこから先述した二つの真実がせめぎ合うような状況が生まれる。それが、イーヤとマーシャが再会する場面だ。イーヤとの間に特別な信頼関係がある軍病院の院長ですら、パーシュカは彼女の子供だと思っているが、実はマーシャの子供だったことがわかる。

イーヤと再会したマーシャは当然、パーシュカのことを尋ねるが、イーヤは曖昧にしか答えない。しびれを切らしたマーシャが「死んだの?」と聞いて、やっとそれを認める。ところがマーシャは理解しがたい反応を見せる。悲しむことも、怒りに駆られることもなく、踊りに行こうと言い出し、困惑するイーヤを連れて街に繰り出す。

さらに、車に乗った二人の若者がナンパしてくると、嫌がるイーヤと共に車に乗り込む。そして、散歩に誘う若者にイーヤがついて行くように仕向け、もう一人の純朴な若者サーシャと二人だけになると、いきなり彼と関係を持つ。

この一連の場面は、主人公の中にある男性と女性という視点から解釈することもできる。イーヤを訪ねてきたマーシャが部屋の前に立つ場面では、彼女が履く軍用ブーツだけが映し出される。軍服姿の彼女は胸にいくつもの勲章を下げている。車の中で二人だけになった時には、純朴なサーシャを力任せに後部座席に引きずり込み、事に及ぶ。それが終わったあとで「ありがとう」という言葉を口にする彼女は、自分を確認しようとしていたようにも見える。

散歩から戻ったイーヤは、何が起こっていたのかを察し、サーシャに襲いかかるが、マーシャが彼女をなだめる。二人はその場を立ち去るが、マーシャは鼻血が止まらなくなっている。彼女は下腹部に傷を負い、後遺症を抱えているばかりか、子供を産めない身体になったことが後に明らかになる。一方、サーシャはこの一件でマーシャに心を奪われ、彼女たちの運命を変えていくことになる。

元女性兵士たちの複雑な内面を独自の視点で描く

バラーゴフは、そんなふうに主人公たちの運命を変える状況を克明に描き出すことで、彼女たちの心の奥底にあるものを想像させる。軍病院で助手として働くことになったマーシャは、清掃中に発作を起こし、病室の空いているベッドで休んでいるうちに、偶然にイーヤのある行為を目撃してしまう。先述した院長とイーヤの特別な信頼関係とはその行為のことを意味している。

どうしても子供が欲しいマーシャは、それをきっかけに、罪悪感を背負うイーヤだけでなく、院長まで巻き込み、目的を果たそうとする。興味深いのは、状況の積み重ねのなかで、主人公たちが異なる願望を抱くようになることだ。

マーシャは、子供を手に入れ、サーシャを夫にして、家族を作ることを思い描く。これまで心を閉ざすように生きてきたイーヤは、自分の罪を償うことで、マーシャと家族になろうとしているように見える。

マーシャとイーヤの中には、二つの真実や男性と女性がせめぎ合い、彼女たちに異なる願望を抱かせる。バラーゴフは、単に『戦争は女の顔をしていない』の証言を反映させるのではなく、元女性兵士たちの複雑な内面を独自の視点と表現で掘り下げている。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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