コラム

MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性

2019年08月20日(火)17時30分

もちろん、正統派が貨幣外生説一辺倒ではまったくないことは、マクロ経済学におけるヴィクセル以来の伝統からも明らかである。とはいえ、初級の教科書などでは、金融政策のすべての出発点は中央銀行によるベース・マネー操作であり、それが信用乗数的なプロセスを通じてマネー・サプライを生み出すといった素朴外生説的な説明に終始しているものも未だに多い。より専門的な文献では、「信用乗数式はベース・マネーとマネー・サプライの需給関数から利子率を消去した誘導型であり、前者から後者への因果関係を示すものではない」といった注意が書かれている場合もあるが、それは必ずしも一般的ではない。その意味で、財政政策と金融政策の実務的および会計的実態に即してそこに何が生じているのかを追求するMMTの姿勢は、モデルと現実との「距離」にしばしば無頓着になりがちな現代の経済学全体が学ぶべきところかもしれない。

さらに、このMMTの中核命題は、市場関係者であったモズラーによって指摘されるまでは、誰によっても明確に指摘されることはなかった。それまでも、「政府が財政支出を行えば民間銀行部門のマネー・サプライが自動的に拡大する」とか「マネー・サプライが拡大すればベース・マネー需要が拡大するので、金利一定である限り、それに同調して中央銀行のベース・マネー供給も自動的に増える」といったことは、さまざまな立場の金融専門家によって指摘されてはいた。しかし、それらを、単なる断片的な把握を越えて、中央銀行による財政支出の自動的ファイナンスという一般的な「概念」にまで高めたのは、疑いもなくMMTの独自性であろう。

このMMT命題にもう一つ大きな意義があるとすれば、それは、政府が何らかの財政支出を行うという時に必ず生じる財源論議の無意味さを明らかにした点にある。たとえば教育無償化にせよ子育て支援にせよ、新たな財政支出を伴う政策を実行すべきか否かが議論される場合に必ず争点になるのが、この「財源をどうするのか」という問題である。この場合の財源とは、一般には「増税」か「他の歳出の切り詰め」のどちらかと理解されている。しかし、MMT命題によれば、あらゆる政府支出は中央銀行による国債を含むソブリン通貨供給によって自動的にファイナンスされるのであるから、そこで財源を云々することに意味はまったくないことが明らかになる。

このMMTの把握は、正統派にも完全に受け入れられる。もとより、反緊縮正統派の多くも、従来から緊縮派を批判するに際しては、「重要なのは全般的な財政状況であるから、個々の支出の財源を云々しても無意味である」とか「その財政状況とりわけ税収は財源どうこうよりも経済状況により大きく依存する」と論じ続けてきたのである。MMT命題は、その反緊縮正統派の従来の主張とまったく整合的である。MMTとの相違は、もっぱら政府財政の長期的維持可能性についての把握にある。

金利が果たす役割の把握に対する根本的な相違

これまで詳述してきたように、正統派とMMTとの最大の相違は、マクロ経済政策という領域における政策戦略にある。すなわち、正統派が基本的に財政政策と金融政策をそれぞれ独立した政策手段として把握しているのに対して、MMTは両者の分離を概念的に否定する。MMTによれば、政策手段として独立しているのは財政政策のみであり、金融政策はそれによって誘導される存在にすぎない。MMTのこの部分には、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンの把握がそのまま受け継がれている。

つまり、MMTの体系には同調的金融政策が存在するのみであり、「中央銀行による金利操作」という本来の意味での金融政策は存在しない。実際、ランダル・レイのModern Money Theoryでは、金融政策については単に「ケインズの後継者たち--自らをケインジアンと呼んでいる連中と混同しないように注意されたい--は常に、金利政策が投資に大きな影響を与えるという考えを拒絶してきた」(p.282)と一言述べられているのみである。MMT派の教科書であるMacroeconomicsでは、第23章第5節で金融政策についての一般的な解説がきわめて手短に記されているが、その最後は「したがって、金融政策が持つ総支出への影響と、そのインフレ過程への間接的な影響は、きわめて疑わしい」(p.366)という総括によって唐突に締めくくられている。

MMTはこのように、通常の意味での金融政策の役割を否定あるいは無視しているが、より正確に言えば、MMTは市場経済における金利の調整機能そのものを全般的に否定している。MMTにとっては、金利とは何よりも中央銀行が政策的に決めるものであり、「市場の需給」とは無関係である。さらにその金利は、単に民間銀行がその資産を国債で持つか準備預金で持つかというポートフォリオ選択に影響を与えるにすぎない。そして、民間銀行がその資産を国債と準備預金のどちらで持ったとしても、それらはともに政府の債務としてのソブリン通貨である以上、両者の間に本質的な相違はない。

それに対して、正統派における金利は、資金市場における資金の需要と供給、その背後にある財市場における投資と貯蓄によって、本来的には市場において決まる。それが、かつては貸付資金説と呼ばれていた、資金市場の需要供給分析である。その背後には、貯蓄における人々の時間選好と投資における投資家の収益期待が存在する。つまり、金利にはその背後に、待忍に対するプレミアムや投資に対する収益という実物的な基礎が存在する。したがってそれは、名目的に表示されてはいるものの、基本的には実物的な変数である。

その両者の関係を明らかにしているのが、「名目金利=実質金利+期待インフレ率」というフィッシャー方程式である。この実質金利は、短期的には財市場における投資と貯蓄の均衡によって決まるが、長期的には実質経済成長率に収斂する傾向を持つ。仮にこの右辺の期待インフレ率が中央銀行の目標インフレ率と一致しているとすれば、中央銀行はその目標を維持するためには、名目金利をこのフィッシャー方程式に合わせて設定しなければならない。というのは、そうでないと、例のヴィクセル的なインフレあるいはデフレの累積過程が生じてしまうからである。

正統派は他方で、こうした金利の持つ市場調整機能が十全に発揮されるのは基本的には完全雇用時であり、不完全雇用時には中央銀行による金利設定の裁量余地がより大きくなることを認める。というのは、労働市場にスラックが存在する不完全雇用経済では、中央銀行が金利を政策的に引き下げることにより、投資と所得と貯蓄を同時に増加させることができるからである。フィッシャー方程式を用いていえば、中央銀行は完全雇用時には名目金利を右辺に合わせて設定しなければならないのに対して、不完全雇用時には逆に、名目金利の引き下げを通じて実質金利の引き下げをもたらすことができる。このようにして行われる金利の調整こそが、正統派にとっての金融政策である。

このように、MMTと正統派との間に横たわる金融政策あるいは金利の役割についての認識上の隔たりはきわめて大きい。MMTはしばしば、正統派が時に用いる貸付資金説的な把握を、赤字財政による金利上昇や民間投資のクラウド・アウトといったその結論とともに否定する。しかし正統派の側からすれば、MMTの金利についてのきわめて非市場的な把握は、単に中央銀行の裁量余地が大きくなる不完全雇用での状況を一般化したにすぎない。また、そこにおいてさえ、金利の役割は極度に矮小化されている。それはいわば、経済学でこれまで展開されてきた金利についての数百年にわたる考察の大部分を無視しているようにさえ写るのである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

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