コラム

ゾルゲのインテリジェンス力

2012年06月08日(金)16時00分

 読売新聞のスクープで明らかになった中国大使館元一等書記官、李春光(リー・チュンコアン)のスパイ疑惑は、肝心の防衛情報へのアクセスが明らかにならないまま、オウム真理教手配犯逮捕とAKB総選挙に押し流され、あっという間に忘れ去られてしまった。読売は警視庁公安部が李を書類送検した日の紙面で「公安部は李書記官が在任中に接触した関係者から事情聴取を進めており、工作活動の全容解明を目指す」と書いたが、おそらく捜査は朝日新聞が同じ日に書いたように「ほぼ終結」したと見るのが正しい。スパイ事件は「ブツ」のやり取りを現場で抑える現行犯逮捕が原則だからだ。

 明らかになっている範囲では、李元書記官は農水省に出入りして、コメの対中輸出事業に関わる農水高官と接触していたようだ。その過程でコメの需給・価格予測という「機密」に接触していた可能性がある――と読売新聞は報じたが、「人民解放軍出身」というおどろおどろしい経歴と、コメの需給・価格予想という必ずしも国家機密に見えない情報へのアクセスはあまりにアンバランスだった。日本メディアの事件の見立てが「重大スパイ事件」「個人的な利得活動」と二つに分かれたのも、それが大きな理由だろう。

 発売中の本誌6月13日号にも書いたが、防衛・外交情報でないからといって国家機密にあたらない訳ではない。農水高官が一昨年から昨年にかけて実現を目指していたコメ20万トンの対中輸出は、もし現実になれば日本の貿易枠組みに大きく影響する可能性もあった。ただ表面化した具体的な情報を見る限り、李元書記官の行動は諜報活動というよりむしろ、大使館での「経済商務担当」という肩書に沿った外交・政治工作だったように思える。

「情報収集をする人間がスパイなら、大使館員は100%スパイ」(法政大学の中国人政治学者、趙宏偉教授)というように、スパイと通常の情報収集活動の線引きは意外に難しい。正式登録者だけで67万人いる在日中国人に網が張れる中国政府は、「広く浅く」で違法行為をせずとも有用な情報を幅広く収集できるとされる。違法行為なしでも検挙できる「スパイ防止法」ができれば、「スパイ」の範囲は広がり、抑止効果も期待できる。ただ、それで万事解決するのだろうか。

 日本の農業問題に関与し、さらにシンクタンク中国社会科学院の研究員として日本各地で講演活動もしていたという李元書記官の経歴を知って、連想した人物がいる。リヒャルト・ゾルゲだ。

 ソ連のスパイだったドイツ人ゾルゲは満州事変の2年後の1933年、日本とドイツの対ソ動向を探るためドイツ紙特派員の肩書で来日。持ち前の分析力・洞察力で自ら在京ドイツ大使に食い込み、さらに諜報団の一員で近衛文麿首相のブレーンだった尾崎秀実から日本政府の重要情報を入手した。41年6月のドイツ軍ソ連侵攻作戦の正確な発動日を1カ月前にソ連に通報し、さらにドイツ軍にモスクワまで迫られ、日本とドイツの挟撃を恐れるソ連にとって決定的に重要だった日本軍の「南進」決定を、同年10月に本国に打電。兵力を日本軍と対峙する満州から東部戦線に移動したソ連は、ドイツ軍を寸でのところで押し返した。ただ「南進」打電の2週間後ゾルゲは日本の特高警察に逮捕、死刑判決を受け、尾崎とともに44年11月処刑された。

 ゾルゲがただの「情報屋」でなかったことは、彼が逮捕前に書いた論文や、全面自供後に記した手記を読めば明らかだ。データ分析に加えて丹念に日本各地を見て回ることで、徴兵される兵士の供給源だった農村の窮状と、それゆえ戦前の日本が本質的に抱える危うさを看破。さらに日本の対中「膨張」志向の必然性を古代と中世の歴史から読み解く......ゾルゲが東京の特派員仲間から一目置かれただけでなく、ドイツ大使館内にいた秘密警察ゲシュタポからも絶大な信頼を受け、大使館内に一室を与えられたのも当然の結果だった。

 インテリジェンスは単に情報を入手するだけでなく、得た情報を正しく分析・評価して初めてインテリジェンス足り得る。70年前にゾルゲが実行していたのは、まさにインテリジェンスだった。研究員の肩書きももっていた李元書記官の「インテリジェンス力」がどれだけだったかは定かでないが、翻ってわが日本政府のインテリジェンス力はどうなのだろうか。「何の情報を盗まれたか」に大騒ぎはするが、その情報を使って中国が日本とどう対峙しようとしているかについて、正しいインテリジェンスはできているのか。

 ゾルゲが活動した日本は、国防保安法と治安維持法という強力な「スパイ防止法」が2つも施行されている時代だった。この2つの法律でゾルゲを刑場に送ることには成功したが、その後「インテリジェンス力」に劣る大日本帝国は、歴史の坂を破滅へ向かって転がり落ちて行く。

 スパイ防止法をつくって事足れり、とするのであれば、歴史の教訓は生かされていないことになる。

――編集部・長岡義博(@nagaoka1969)

プロフィール

ニューズウィーク日本版編集部

ニューズウィーク日本版は1986年に創刊。世界情勢からビジネス、カルチャーまで、日本メディアにはないワールドワイドな視点でニュースを読み解きます。編集部ブログでは編集部員の声をお届けします。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米中貿易枠組み合意、軍事用レアアース問題が未解決=

ワールド

独仏英、イランに核開発巡る協議を提案 中東の緊張緩

ワールド

イスラエルとイランの応酬続く、トランプ氏「紛争終結

ワールド

英、中東に戦闘機を移動 地域の安全保障支援へ=スタ
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 2
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 3
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されずに「信頼できない人」を見抜く方法
  • 4
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 5
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 6
    構想40年「コッポラの暴走」と話題沸騰...映画『メガ…
  • 7
    逃げて!背後に写り込む「捕食者の目」...可愛いウサ…
  • 8
    「結婚は人生の終着点」...欧米にも広がる非婚化の波…
  • 9
    4年間SNSをやめて気づいた「心を失う人」と「回復で…
  • 10
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 5
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 6
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 7
    ふわふわの「白カビ」に覆われたイチゴを食べても、…
  • 8
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 9
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 10
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 1
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 2
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story