コラム

「ミスター危機管理」はなぜ自らの政治危機を回避できなかったのか

2021年09月06日(月)06時30分

「パンケーキ」「ガースー」......広報戦略の不在

もちろん菅氏の戦略眼からすれば、福田赳夫以来となる「現職総理が総裁選で敗北する」という事態や、総裁選に勝ったとしても総選挙で自民党が過半数割れを起こして引責辞任に追い込まれるという事態を避けて、総裁選から身を引く「英断」を見せる方が将来への影響力を残せるという計算もあろう。ワクチン接種は進展してはいるものの、コロナ変異株の感染拡大が来年夏の参議院選挙までに収束しているという保証はない。ここで自分が、二階幹事長らと一蓮托生となって身を引いてこそ、「うねり」を自民党に戻す方策になるのだという判断がこの5日間で徐々にかつ確実に形成されたことが、菅氏の退陣表明に至る背景にあるように見える。

これらの事情に鑑みると、2日夜から3日朝にかけて何らかの外部的事情が生じたことが退任決意の直接的な原因というよりも、「5日間政局」の過程で菅氏の内的心理状態が揺れ動き、気力減衰の限界と将来の見立てが一致したタイミングの帰結として、総務会での人事一任取り付けが不透明になる中で最終的に不出馬を決断したと考えることができる。

菅政権は発足以来、デジタル庁の設置、2050年までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロにするグリーン成長戦略の策定、携帯電話料金引き下げなどの実績を残した。これに対して、米バイデン政権やEUと協調して中国とどう向き合うか、FOIP(自由で開かれたインド太平洋構想)をどう展開するか、ミャンマーやアフガニスタンなどに関わる外政で日本の本領をどう発揮するかといった外交上の課題は道半ばで終わった。改革路線への期待もあったが、総務省接待事件など「政治とカネ」を巡るコンプライアンス問題も噴出し、課題は積み残されたままだ。

しかし、何よりもコロナ禍という未曽有の災難に対処する「危機管理型内閣への期待」に応えられなかったのが最大の痛手であった。菅政権の1年は結局のところ「危機管理のプロが新型コロナに翻弄された」ということに尽きる。菅首相は「首相兼官房長官」とも称される意思決定スタイルを貫き、補佐官など一部の限られた官邸側近を重用したが、トップダウン式で対処するにはコロナ禍は大きすぎる災難だったのか、それとも「日本型ロックダウン」導入を巡る議論の迷走が示すように、そもそも戦後日本が有事に対応できる法体系を導入できておらず、誰であっても出来ることに限界があったのか、その評価は分かれる。

菅政権に対する批判で共通して言われているのは「広報戦略の不在」である。確かに「パンケーキ」に始まり、鬼滅の刃の「全集中」や「ガースーです」発言など、「庶民派宰相」のイメージを押し出して国民に親しみを覚えてもらおうとする仕掛けは随所に見られた。しかし必ずしもうまく行ったとは言えず、特に政権末期にはほとんど聞かれなかった。小泉純一郎元首相のオペラ鑑賞や安倍前首相のテレビ出演に見られるソフトパワーの活用はなされず、他方で、郵政民営化における「抵抗勢力」や、「韓国」や「サヨク」を仮想敵に仕立て国民の熱狂を煽り、カタルシスを与えることで岩盤支持層を形成し維持する策も取られなかった。それはコロナ禍という現実そのものが社会の敵として屹立しており、その対処が最優先されたからでもあろう。贈収賄事件など多発した不祥事について説明責任を果たす姿勢も充分ではなかった。

プロフィール

北島 純

社会構想⼤学院⼤学教授
東京⼤学法学部卒業、九州大学大学院法務学府修了。駐日デンマーク大使館上席戦略担当官を経て、現在、経済社会システム総合研究所(IESS)客員研究主幹及び経営倫理実践研究センター(BERC)主任研究員を兼務。専門は政治過程論、コンプライアンス、情報戦略。最近の論考に「伝統文化の「盗用」と文化デューデリジェンス ―広告をはじめとする表現活動において「文化の盗用」非難が惹起される蓋然性を事前精査する基準定立の試み―」(社会構想研究第4巻1号、2022)等がある。
Twitter: @kitajimajun

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

三菱重、通期の純利益を上方修正 一転して増益予想に

ビジネス

CKハチソン、パナマ相手に仲裁手続き 港湾契約無効

ワールド

エヌビディアAI半導体、中国向け販売停滞 米国家安

ワールド

メキシコ、官民連携で3000億ドル超のインフラ投資
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプの帝国
特集:トランプの帝国
2026年2月10日号(2/ 3発売)

南北アメリカの完全支配を狙うトランプの戦略は中国を利し、世界の経済勢力図を完全に塗り替える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    高市積極財政にアメリカが慌てる理由
  • 2
    「出禁」も覚悟? ディズニーランドで緊急停止した乗り物から「勝手に退出」する客の映像にSNS批判殺到
  • 3
    高市首相の発言は正しかった...「対中圧力」と「揺れるアメリカ」に向き合う「日本の戦略」とは?
  • 4
    致死率は最大75%のニパウイルスが、世界規模で感染…
  • 5
    トランプ不信から中国に接近した欧州外交の誤算
  • 6
    地球の近くで「第2の地球」が発見されたかも! その…
  • 7
    ロシア軍の前線で「弾よけ」にされるアフリカ人...兵…
  • 8
    最長45日も潜伏か...世界が警戒する「ニパウイルス」…
  • 9
    アジアから消えるアメリカ...中国の威圧に沈黙し、同…
  • 10
    ICE射殺事件で見えたトランプ政権の「ほころび」――ア…
  • 1
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 2
    高市積極財政にアメリカが慌てる理由
  • 3
    中国で大規模な金鉱脈の発見が相次ぐ...埋蔵量は世界でも過去最大規模
  • 4
    180万トンの「リチウムごみ」を資源に...EV電池の「…
  • 5
    日本への威圧を強める中国...「レアアース依存」から…
  • 6
    ロシア軍の前線で「弾よけ」にされるアフリカ人...兵…
  • 7
    町長を「バズーカで攻撃」フィリピンで暗殺未遂、大…
  • 8
    「出禁」も覚悟? ディズニーランドで緊急停止した乗…
  • 9
    秋田県は生徒の学力が全国トップクラスなのに、1キロ…
  • 10
    パキスタン戦闘機「JF17」に輸出交渉が相次ぐ? 200…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?【2025年の話題クイズ5選】
  • 2
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 3
    中国製防空レーダーは米軍のベネズエラ攻撃に屈した──台湾高官が分析
  • 4
    セーターが消えた冬 ── 暖かさの主戦場が「インナー」…
  • 5
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?【202…
  • 6
    海上自衛隊が水中無人機(UUV)を導入 中国の海軍拡…
  • 7
    高市積極財政にアメリカが慌てる理由
  • 8
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」は…
  • 9
    防衛省が「新SSM」の映像を公開、ノルウェー・コング…
  • 10
    中国で大規模な金鉱脈の発見が相次ぐ...埋蔵量は世界…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story