コラム

ドナルド・トランプとアメリカ政治の隘路

2016年11月10日(木)12時12分

 しかしながら、すでに社会主義的な正義は冷戦終結とともに崩壊しており、またグローバル化の流れの中で一国単位の富の再配分はあまり意味をなさなくなります。所得税や法人税を増税すれば企業は海外移転、高額所得者は海外移住して、空洞化が起こって税収は更に悪化します。もしも増税をせずに、再配分政策を行えば財政赤字が拡大するだけです。そのどちらも、現実的な政策として困難であるとすれば、米英両国では新自由主義的な政策を続けるしかありません。それは、It's economy, stupid!と語ったビル・クリントンも、「第三の道」を語ったトニー・ブレアも、政権を取ってからは結局は前任者たちの新自由主義的な政策を修正できずに、多くの低所得者層や貧困層を失望させたことにも象徴されています。

【参考記事】トランプを勝利させた「白人対マイノリティ」の人種ファクター

 その結果として、低所得者層や貧困層の白人男性たちは、かつての豊かな社会を創造しながら(それは必ずしも現実のものではありませんが)、現状に不満を持ち、悲惨な現状をもたらした(と彼らが標的とする)既存のエスタブリッシュメント層や、政治エリート、移民たちに攻撃の対象を設定します。あと、必要なのは、そのような怒りに共感をして、彼らの粗野であまり現実的ではない怒りの感情の受け皿となるような指導者でした。それが、アメリカのトランプであり、バーニー・サンダースであり、イギリスのジェレミー・コービンであり、ナイジェル・ファラージでした。それらの指導者を既存のエリート層が侮蔑して見下すことは、それらの指導者を自らの代弁者と考える低所得者層と貧困層の白人男性たちを侮蔑して見下すことと、同じだと彼らは考えたのでしょう。

【参考記事】「トランプ勝利」世界に広がる驚き、嘆き、叫び

 その結果として彼らの怒りが沸点に達して、「革命」を求めるのは不思議ではありません。彼らが求めたのは、理性的に自らの生活の現状を漸進的に改善することではありません。怒りの感情に任せて、彼らの憎しみの対象にダメージを与えることです。それはまた、結果として、自らの生活にダメージを与えることになるのですが、彼らはそれでも構わないのです。自らの生活の質の向上よりも、憎しみの対象を傷つけることの方が、はるかに愉快だからです。ですので、ヒラリーが絶望し、彼女の支持者であるエスタブリッシュメント層や、高学歴エリート、エリート大学の学生たちが悲嘆している姿は、まさにそれらの排除された人々が心から求めていたものであり、ずっと見たかった光景だったのだと思います。

 100年前に貴族階級が社会における支配的な地位を失ったように、今回の政治的変化は、基本的に静かな社会革命であって、政治的エリートやエスタブリッシュメントが支配的地位を失うようになる端緒になるかも知れません。よりポピュラーな政治が求められ、政治的エリートや官僚が大衆メディアやポピュリストの政治家の標的になります。この構図は、Brexitとまったく一緒です。

 民主主義は深刻な隘路に陥り、根本的な変革や対応なくして困難を解決するのは難しいと思います。もちろんトランプにはそれを成功させる能力はないと思いますが、人々は現状の「継承」よりも「破壊」を求めているのだと思います。破壊の先にあるのは、より深い絶望と、政治的混迷、そしてさらには政治に対する深刻な不信感の増大です。これからの世界は、よりいっそうの混迷と憎悪が満ちてくるのではないでしょうか。

 それは、資本主義の危機です。『国富論』を書き、市場原理という資本主義の基本原理を提示したアダム・スミスは、グラスゴー大学の道徳哲学の教授であり、『道徳感情論』の著者でもありました。そこでスミスは次のように書いています。


「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに人間の本性のなかには、何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心をもち、他人の幸福を――それを見る喜びの他には何も引き出さないにもかかわらず――自分にとって必要なものだと感じるのである。この種類に属するのは、哀れみまたは同情であり、それは、われわれが他の人々の悲惨な様子を見たり、生々しく心に描いたりしたときに感じる情動である。われわれが、他の人々の悲しみを想像することによって自分も悲しくなることがしばしばあることは明白であり、証明するのに何も例を挙げる必要はないであろう。」(アダム・スミス『道徳感情論』第一部、第一編、第一章)

プロフィール

細谷雄一

慶應義塾大学法学部教授。
1971年生まれ。博士(法学)。専門は国際政治学、イギリス外交史、現代日本外交。世界平和研究所上席研究員、東京財団上席研究員を兼任。安倍晋三政権において、「安全保障と防衛力に関する懇談会」委員、および「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」委員。国家安全保障局顧問。主著に、『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社、サントリー学芸賞)、『外交による平和』(有斐閣、櫻田会政治研究奨励賞)、『倫理的な戦争』(慶應義塾大学出版会、読売・吉野作造賞)、『国際秩序』(中公新書)、『歴史認識とは何か』(新潮選書)など。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

ノルウェー、EV課税拡大を計画 米テスラ大衆向けモ

ビジネス

アングル:関西の電鉄・建設株が急伸、自民と協議入り

ビジネス

EUとスペイン、トランプ氏の関税警告を一蹴 防衛費

ビジネス

英、ロシア2大石油会社に制裁 「影の船団」標的
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:日本人と参政党
特集:日本人と参政党
2025年10月21日号(10/15発売)

怒れる日本が生んだ「日本人ファースト」と参政党現象。その源泉にルポと神谷代表インタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    まるで『トップガン』...わずか10mの至近戦、東シナ海で「中国J-16」 vs 「ステルス機」
  • 2
    フィリピンで相次ぐ大地震...日本ではあまり報道されない、被害の状況と実態
  • 3
    「欧州最大の企業」がデンマークで生まれたワケ...奇跡の成長をもたらしたフレキシキュリティーとは
  • 4
    「心の知能指数(EQ)」とは何か...「EQが高い人」に…
  • 5
    イーロン・マスク、新構想「Macrohard」でマイクロソ…
  • 6
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 7
    【クイズ】アメリカで最も「死亡者」が多く、「給与…
  • 8
    日本で外国人から生まれた子どもが過去最多に──人口…
  • 9
    【クイズ】サッカー男子日本代表...FIFAランキングの…
  • 10
    「中国に待ち伏せされた!」レアアース規制にトラン…
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな飼い主との「イケイケなダンス」姿に涙と感動の声
  • 3
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以外の「2つの隠れた要因」が代謝を狂わせていた
  • 4
    【クイズ】日本人が唯一「受賞していない」ノーベル…
  • 5
    中国人が便利な「調理済み食品」を嫌うトホホな理由…
  • 6
    まるで『トップガン』...わずか10mの至近戦、東シナ…
  • 7
    ベゾス妻 vs C・ロナウド婚約者、バチバチ「指輪対決…
  • 8
    フィリピンで相次ぐ大地震...日本ではあまり報道され…
  • 9
    時代に逆行するトランプのエネルギー政策が、アメリ…
  • 10
    「中国のビットコイン女王」が英国で有罪...押収され…
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    「大谷翔平の唯一の欠点は...」ドジャース・ロバーツ監督が明かすプレーオフ戦略、監督の意外な「日本的な一面」とは?
  • 3
    カミラ王妃のキャサリン妃への「いら立ち」が話題に...「少々、お控えくださって?」
  • 4
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
  • 5
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 6
    バフェット指数が異常値──アメリカ株に「数世代で最…
  • 7
    「日本の高齢化率は世界2位」→ダントツの1位は超意外…
  • 8
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 9
    数千円で買った中古PCが「宝箱」だった...起動して分…
  • 10
    【クイズ】日本人が唯一「受賞していない」ノーベル…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story