コラム

ドナルド・トランプとアメリカ政治の隘路

2016年11月10日(木)12時12分

Jonathan Ernst-REUTERS

<アメリカの理念が死んで、トランプが勝利した。1980年代に新自由主義の代償として生じた社会の分断。あと必要なのは、低所得層や貧困層の怒りの感情の受け皿だけだった。今回、民主主義は深刻な隘路に陥ったが、この先にあるものは一体何か>

 ドナルド・トランプが大統領に選ばれました。このニュースは世界中を震撼させ、ヒラリー・クリントン陣営に悲劇をもたらしました。

 私は、トランプが大統領選挙に勝利したことで、アメリカの理念が死んだというのは間違いだと思っています。むしろそれは反対で、アメリカの理念が死んだことで、トランプが大統領選挙に勝利したのだろうと思います。それではアメリカの理念とは何か。

 1980年代に新自由主義という新しい潮流が生まれ、レーガン大統領の下で「小さい政府」のレーガノミクスが誕生して、新しい時代が到来しました。それは、ジョンソン大統領が唱えた「偉大な社会」や戦後イギリス政府が確立した「コンセンサス」政治のような、社会的包摂を前提とする思想とは大きく異なるものです。それは、アメリカの衰退に立ち向かい、強いアメリカを創るために必要な新しい思想だとみなされていました。ある程度それは、正しかったと思います。

 戦後の社会的包摂は高度経済成長と、世界経済における先進民主主義諸国の圧倒的な優越性によって成り立っていました。しかしそのような高度経済成長がいつまでも続くわけではないし、またアジア経済の台頭によって欧米諸国のみが世界の豊かさを独占し続けることができるわけでもない。それゆえに、アメリカ経済は競争力を強化して、科学技術を振興させ、企業の利益を増大させる必要が生じました。そして実際に1980年代以降の新自由主義は、アメリカとイギリスの両国の経済の競争力を強化して、また企業がよりいっそう利益を得ることを成功させました。しかしその代償として、従来のような安定的な雇用慣行が失われて労働市場が流動化して、社会保障も制約がもたらされ、個人責任の倫理が浸透します。すなわち、1980年代以降のアメリカとイギリスを中心とする新自由主義の潮流は、大きな利益と大きな代償と、その双方をもたらしたのです。本来であれば、その大きな利益をもとに、大きな代償によって傷ついた人々の痛みを癒やしていくべきでした。しかしながら、アメリカ社会はそのような方向には動きませんでした。むしろ、グローバル化の流れの必要からか、原理主義的に減税を正義と考えて、国家の介入を悪と考えていきます。それは、いわば、イスラム原理主義同様の、原理主義的な正義感に基づいた政治行動となります。

 市場経済の徹底と競争力の強化がその後30年ほど続き、グローバル化が進むなかで雇用が失われ、家族が崩壊し、希望が失われた人々が大量に生まれていきます。その過程で、アメリカの大学はグローバル化のなかで名門大学は入学がよりいっそう困難になり、また学費も高騰していきます。貧困層からは容易に名門大学へは進学できなくなり、また社会における所得格差が固定化されていくことで、一握りのきわめて富裕な階層と、多数の貧しい階層との社会が分断されて、後者の人々が政治に希望が持てなくなり、「アメリカン・ドリーム」を信じられなくなったのだと思います。今の時代に、リンカーン少年が生活していたら、おそらくは大統領の道を進むことはほとんど不可能だろうと思います。オバマ大統領はハーバード・ロースクール、ブッシュ大統領はハーバード・ビジネススクール、ビル・クリントンはイエール・ロースクール、そしてトランプでさえ経営学で最高峰のペンシルベニア・ウォートン・スクールで学んでいます。いずれも、一年間での学費は、500万円を超えるでしょう。

プロフィール

細谷雄一

慶應義塾大学法学部教授。
1971年生まれ。博士(法学)。専門は国際政治学、イギリス外交史、現代日本外交。世界平和研究所上席研究員、東京財団上席研究員を兼任。安倍晋三政権において、「安全保障と防衛力に関する懇談会」委員、および「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」委員。国家安全保障局顧問。主著に、『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社、サントリー学芸賞)、『外交による平和』(有斐閣、櫻田会政治研究奨励賞)、『倫理的な戦争』(慶應義塾大学出版会、読売・吉野作造賞)、『国際秩序』(中公新書)、『歴史認識とは何か』(新潮選書)など。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

ノルウェー、EV課税拡大を計画 米テスラ大衆向けモ

ビジネス

アングル:関西の電鉄・建設株が急伸、自民と協議入り

ビジネス

EUとスペイン、トランプ氏の関税警告を一蹴 防衛費

ビジネス

英、ロシア2大石油会社に制裁 「影の船団」標的
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:日本人と参政党
特集:日本人と参政党
2025年10月21日号(10/15発売)

怒れる日本が生んだ「日本人ファースト」と参政党現象。その源泉にルポと神谷代表インタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    まるで『トップガン』...わずか10mの至近戦、東シナ海で「中国J-16」 vs 「ステルス機」
  • 2
    フィリピンで相次ぐ大地震...日本ではあまり報道されない、被害の状況と実態
  • 3
    「欧州最大の企業」がデンマークで生まれたワケ...奇跡の成長をもたらしたフレキシキュリティーとは
  • 4
    「心の知能指数(EQ)」とは何か...「EQが高い人」に…
  • 5
    イーロン・マスク、新構想「Macrohard」でマイクロソ…
  • 6
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 7
    【クイズ】アメリカで最も「死亡者」が多く、「給与…
  • 8
    日本で外国人から生まれた子どもが過去最多に──人口…
  • 9
    【クイズ】サッカー男子日本代表...FIFAランキングの…
  • 10
    「中国に待ち伏せされた!」レアアース規制にトラン…
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな飼い主との「イケイケなダンス」姿に涙と感動の声
  • 3
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以外の「2つの隠れた要因」が代謝を狂わせていた
  • 4
    【クイズ】日本人が唯一「受賞していない」ノーベル…
  • 5
    中国人が便利な「調理済み食品」を嫌うトホホな理由…
  • 6
    まるで『トップガン』...わずか10mの至近戦、東シナ…
  • 7
    ベゾス妻 vs C・ロナウド婚約者、バチバチ「指輪対決…
  • 8
    フィリピンで相次ぐ大地震...日本ではあまり報道され…
  • 9
    時代に逆行するトランプのエネルギー政策が、アメリ…
  • 10
    「中国のビットコイン女王」が英国で有罪...押収され…
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    「大谷翔平の唯一の欠点は...」ドジャース・ロバーツ監督が明かすプレーオフ戦略、監督の意外な「日本的な一面」とは?
  • 3
    カミラ王妃のキャサリン妃への「いら立ち」が話題に...「少々、お控えくださって?」
  • 4
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
  • 5
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 6
    バフェット指数が異常値──アメリカ株に「数世代で最…
  • 7
    「日本の高齢化率は世界2位」→ダントツの1位は超意外…
  • 8
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
  • 9
    数千円で買った中古PCが「宝箱」だった...起動して分…
  • 10
    【クイズ】日本人が唯一「受賞していない」ノーベル…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story