インタビュー:プラザ合意40年、行天元財務官の後悔とメッセージ(上)

日本経済の大きな転換点となった1985年のプラザ合意から、22日で40年となる。写真は、プラザ合意の交渉に携わった三菱UFJ銀行名誉顧問の行天豊雄氏(94)。9月11日、東京で撮影(2025年 ロイター/Issei Kato)
Tamiyuki Kihara Makiko Yamazaki
[東京 22日 ロイター] - 日本経済の大きな転換点となった1985年のプラザ合意から、22日で40年となる。当時、対米輸出に支えられていた日本は合意による円高の急伸に苦しみ、対症療法的な金融緩和は不動産や株式価格の膨張を生みバブル崩壊につながっていく。
大蔵省(現・財務省)国際金融局長としてプラザ合意の交渉に携わった三菱UFJ銀行名誉顧問の行天豊雄氏(94)に、交渉過程の舞台裏や今後の日本経済のあるべき姿について聞いた。
<肌で感じた米保護主義>
プラザ合意の交渉は85年春から始まった。当時、レーガン政権下の米国は貿易と財政の「双子の赤字」に苦悶していた。行天氏は政府内の雰囲気を「米国の貿易赤字、財政赤字は非常に大きな課題になっていた。我々が一番心配していたのは米国議会での保護主義だった」と思い起こす。「赤字が増える一方で、特に自動車産業など雇用が減るんじゃないかということで米国議会が次々と保護主義法案を作っていた」からだ。
米国の赤字は「後から考えてみれば家計消費が大きすぎるという明白な理由があった」といまは思うが、「レーガノミクスで金利が非常に高くなって、それにつられてドルが非常に強くなっていた。なんとなくドル高が米国の赤字の原因じゃないかという議論があり、当時はそれが受け入れられた」と振り返る。
こうした認識から、米国のベーカー財務長官を中心に、日本、フランス、英国、西ドイツの主要5カ国(G5)が協議を開始した。「日本は戦後、米国のお金、自由貿易体制で非常に大きく恩恵を享受していた。日本政府も業界も一般の人も(米国の保護主義化は)非常に怖かった。危険だという認識があった」という。竹下登蔵相(当時)も「(ベーカー氏の協議に)極めて前向きに対応しようとしていた」と話す。
<順調だった極秘協議、想定外の顛末>
米国への協調姿勢を各国が共有していたことから、交渉は「順調に」進んだという。各国財務相と中央銀行総裁による協議に向け、「G5D(デピュティ)」と呼ばれた各国の事務方は極秘裏に協議を重ね、どの程度の為替介入が必要か、どこのマーケットで実施するかなど具体的な方針を決めていった。
「G5Dで意見が対立して、交渉が行き詰まったというようなことはなかった。非常にスムーズな国際協調だった。あの頃は米国の一極指導秩序というのが非常に強固にまだあったからね」。行天氏は交渉過程をこう総括した。
ただ、合意を受けた為替市場は想定外の動きを見せていく。なぜ思惑は狂ったのか。次回、行天氏が円急騰からバブル崩壊までを振り返る。
(鬼原民幸、山崎牧子 グラフィックス作成:田中志保 編集:橋本浩)
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