コラム

映画ストリーミングの多難な前途

2011年07月20日(水)18時26分

 米ネットフリックスが視聴料金を60%も値上げして、ユーザーからの総スカンを喰っている。

 日本での知名度はあまりないかもしれないが、ネットフリックスは、今やアメリカの家庭になくてはならないサービスである。DVDの宅配サービスでスタートし、その後数年前から映画やテレビ番組をストリーミングし始めた。全米で2300万人のユーザーを抱え、子供のいる家庭から独身者まで、今やまわりでネットフリックスの利用者でない人を探すことの方が難しいくらいだ。

 ネットフリックスの魅力は、何と言ってもその利用料金の安さ。いちばん高額の視聴契約だとDVDも借り放題、ストリーミングも見放題で、それが1ヶ月たったの10ドルだ。新作の映画を見に行くと、それだけで20ドル近くかかってしまうのに、朝から晩まで1ヶ月見続けてもその半額なのだから、信じられないくらいの安さなのである。ネットフリックスのおかげで、レンタル・ビデオ屋はもとより、映画館の存在も危うくなったとされるのもよくわかるところだ。

 さて、今回の値上げ騒ぎを見ていると、いろいろなこと考えさせられる。

 ひとつは、格安サービスが、どれだけユーザーをヒステリックな存在にしてしまうかだ。この値上げでは、先に挙げた視聴契約が、月額10ドルから16ドルになった。また、それとは別の、1回毎に1枚ずつDVDを借りるサービスは、1ドル値上げして8ドルへ。以前ならば、これに無料でストリーミングがついていたが、今後は有料で2ドルになる。ちなみにこれは、1ヶ月1枚ではなく、手元に1枚ずつという契約だ。だから、すぐに観てすぐに返送するといった具合に上手に回していけば、1ヶ月あたり10枚以上のDVDを借りることも可能である。さらに、見放題のストリーミングだけの契約ならば、8ドルという設定。

 つまり、こうして見てみると、60%の値上げの後でも1作あたりの値段に換算するとかなり安いのだが、それでも利用者の怒りは納まらず、半分ほどの利用者がサービスを解約しようとしているらしい。食事をして映画に行けば、それだけで50ドルはするだろう。あるいは、展覧会に行けば20ドルは超える。だが、ことネットフリックスに関しては、同じ娯楽でも1セント単位で感知しているかのような状況なのである。

 同じような例は、アマゾンが電子書籍の価格をやむなく3ドルほど値上げした時にも見られた。通常のハードカバーなら25ドル以上もする書籍を、電子版なら半額以下の10ドル以下で提供していたのだが、これに慣れたユーザーの怒りはかなりのものだった。

 もうひとつ気になったのは、これからのインターネット・ビジネスの主流となるビデオ・ストリーミングの遅い離陸だ。

 ネットフリックスが値上げに踏み切った理由は、ハリウッドの映画会社からの圧力も一部あったとも噂されるが、最大の理由は単に値上げが可能だったからである。すなわち、この映画レンタル市場で寡占状態にあるネットフリックスが、その支配力を行使したわけだ。だが、同時に十分な数の利用者がDVDからストリーミングに移行せず、コストがかさんだことも背景にあるという。DVDの郵送には金がかかるが、ストリーミングはかからない。利用者をストリーミングにうまく移行させてこそ、儲けが大きく出るビジネス・モデルだったのだが、そのタイミングを計り損ねたのだ。

 ここでわかるのは、たとえ便利で見放題でも、利用者はストリーミングではなく、DVDに固執しているということだ。今でもコンテンツは「モノ」から出てくると思っているふしがある。高速接続があれば、スピードや画像の質の点では、ほぼ何も問題ないストリーミングなのだが、まだ人々の慣れ親しんだ慣習の突破口を越えられないでいるのだ。

 ストリーミングが飛び立たないもうひとつの原因は、再びハリウッドである。映画会社は、DVDの売り上げを守るために、ストリーミング用にはそうそうたくさんのタイトルは提供しない。限られたセレクションしかないので、利用者を定着させることができないのだ。映画のストリーミング・サービスには、アップルやアマゾンなども参入しているが、どれもパッとしないのはそんな理由だ。

 手作りビデオなどの雑多なコンテンツの消費プラットフォームとして大人気のストリーミングだが、映画コンテンツでなかなか成功しない。次世代のビジネスの糧と持ち上げられはするが、実際のところは障害が山積みなのである。

プロフィール

瀧口範子

フリーランスの編集者・ジャーナリスト。シリコンバレー在住。テクノロジー、ビジネス、政治、文化、社会一般に関する記事を新聞、雑誌に幅広く寄稿する。著書に『なぜシリコンバレーではゴミを分別しないのか? 世界一IQが高い町の「壁なし」思考習慣』、『行動主義: レム・コールハース ドキュメント』『にほんの建築家: 伊東豊雄観察記』、訳書に『ソフトウェアの達人たち: 認知科学からのアプローチ(テリー・ウィノグラード編著)』などがある。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米当局、ホンダ車約140万台を新たに調査 エンジン

ワールド

米韓、同盟近代化巡り協議 首脳会談で=李大統領

ビジネス

日本郵便、米国向け郵便物を一部引き受け停止 関税対

ビジネス

低水準の中立金利、データが継続示唆=NY連銀総裁
MAGAZINE
特集:健康長寿の筋トレ入門
特集:健康長寿の筋トレ入門
2025年9月 2日号(8/26発売)

「何歳から始めても遅すぎることはない」――長寿時代の今こそ筋力の大切さを見直す時

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット民が「塩素かぶれ」じゃないと見抜いたワケ
  • 2
    皮膚の内側に虫がいるの? 投稿された「奇妙な斑点」の正体...医師が回答した「人獣共通感染症」とは
  • 3
    飛行機内で隣の客が「最悪」のマナー違反、「体を密着させ...」 女性客が投稿した写真に批判殺到
  • 4
    「死ぬほど怖い」「気づかず飛び込んでたら...」家の…
  • 5
    なぜ筋トレは「自重トレーニング」一択なのか?...筋…
  • 6
    顔面が「異様な突起」に覆われたリス...「触手の生え…
  • 7
    アメリカの農地に「中国のソーラーパネルは要らない…
  • 8
    【写真特集】「世界最大の湖」カスピ海が縮んでいく…
  • 9
    「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」(東京会場) …
  • 10
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 1
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 2
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに感染、最悪の場合死亡も
  • 3
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人」だった...母親によるビフォーアフター画像にSNS驚愕
  • 4
    「死ぬほど怖い」「気づかず飛び込んでたら...」家の…
  • 5
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 6
    中国で「妊娠ロボット」発売か――妊娠期間も含め「自…
  • 7
    皮膚の内側に虫がいるの? 投稿された「奇妙な斑点」…
  • 8
    なぜ筋トレは「自重トレーニング」一択なのか?...筋…
  • 9
    飛行機内で隣の客が「最悪」のマナー違反、「体を密…
  • 10
    20代で「統合失調症」と診断された女性...「自分は精…
  • 1
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベーション、医師が語る熟年世代のセルフケア
  • 2
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 3
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 4
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大…
  • 5
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 6
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果…
  • 7
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅…
  • 8
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 9
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 10
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story