コラム

円安で日本人は豊かになるのだろうか

2013年02月19日(火)17時10分

 モスクワで開かれていたG20(20ヵ国財務相・中央銀行総裁会議)は、16日に共同声明を採択して閉幕した。日本の政府首脳の円安誘導発言について批判が出るのではないかとの懸念もあったが、結果的には表立った批判はなく、共同声明も「通貨安競争」を回避することを述べるにとどまった。

 政府は一安心という感じだが、政府や中央銀行が為替を操作して「通貨戦争」を仕掛けるという話は都市伝説である。1日に5兆ドルが動く外国為替市場で、政府が数百億ドル介入しても一時的な効果しかない。また中央銀行が金融緩和しても、現在のようなゼロ金利に近い状況ではインフレ効果はほとんどなく、したがって為替が動くこともありえない。今の相場は、日本政府首脳の発言を材料にしているだけである。

 そもそも円が安くなると、何かいいことがあるのだろうか。安倍首相の頭には、彼が前に首相をやっていたころの円安による好景気のイメージがあるものと思われるが、そのころと今の日本には大きな違いがある。日本は今や貿易赤字国なのだ。円建て輸出額よりドル建て輸入額のほうが多いので、ドル高によって貿易赤字は増えるのである。

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 図のように2012年の貿易収支は5.8兆円の赤字だ。所得収支(投資収益や海外子会社からの配当など)の黒字が14.3兆円なので、経常収支は4.7兆円の黒字になっているが、ここ5年で黒字は1/5に激減しており、あと数年で経常収支も赤字になるおそれが強い。変動相場制は本来、経常収支が赤字になると為替レートが下がって貿易赤字を減らすように設計された制度なので、円が下がるのは当然である。

 これで日本は豊かになるのだろうか。明らかな受益者は輸出企業である。たとえばトヨタ自動車は今年3月期の決算を1100億円上方修正した。輸出が増えたほか、海外子会社からの送金もドル高で増えるため、製造業全体で1兆円の増益効果があるといわれる。財界の主流であるグローバル企業にとっては、円安は大歓迎だ。

 他方、被害者は薄く広く日本全体に広がる。ドル高で化石燃料のコストは大幅に上がり、2012年の輸入額は18.2兆円と11年より13%増えた。原発が止まってLNGの輸入が3兆円ぐらい増えている上に、ドル高が日本経済の重しになりつつある。マーケットでは1ドル=100円まで下がるのは時間の問題とみられているが、そうなるとドル建ての輸入額は20%以上も上がる。

 2008年の前半に消費者物価上昇率が年率2%を超えたのは原油高が原因だが、そういう輸入インフレが起こるおそれがある。当時は電力会社が健全だったが、今は原発の停止で赤字経営を強いられている。原油高は電力会社の経営を直撃し、電気料金が大幅に値上げされるだろう。原油価格も、すべての製造業のコストを押し上げる。

 円が弱くなることは資産価値が減ることであり、本来は望ましくない。それが経済を改善するのは、貿易黒字が経済を支えていた高度成長期の「貿易立国」の時代の話であり、いつまでも続けることはできない。多くの国が次のような発展段階をへて成熟してゆくといわれる。

 1.途上国:貿易収支は赤字で、資本収支は黒字(流入超)
 2.成長国:貿易収支は黒字になるが、所得収支は赤字なので経常収支は赤字
 3.輸出国:経常収支が黒字になり、資本収支は赤字になる
 4.債権国:貿易収支と所得収支が黒字になリ、経常収支は大幅な黒字
 5.成熟国:貿易収支は赤字になるが所得収支は黒字で、経常収支の黒字が縮小
 6.衰退国:経常収支が赤字になって資本収支が黒字になる(対外資産を取り崩す)

 日本は戦後の60年余りで1から5まで駆け抜け、これから6の段階に入ろうとしている。これ自体は経済の成熟の結果で避けられないことだが、問題は経済構造が貿易立国の時代のまま変わらないことだ。

 製造業はグローバル競争にさらされて超競争的だが、非製造業は規制に守られて労働生産性が低い。都市の企業が輸出で上げた利益を政府が地方の非製造業に再分配する財政構造が定着したため、構造的な財政赤字が定着した。流通業や建設業などに余剰人員が蓄積して労働生産性が下がる一方、ITや金融などの新しい企業は日本を捨てて海外に移転している。

 こういう構造はいつまでも続けられない。今後40年で労働人口は半減し、現役世代1人で引退世代1人を支える超高齢化社会が来る。財政赤字を支えている民間貯蓄は経常黒字に対応するので、経常赤字になると財政を支えられなくなる。財政が破綻すると、老化して活力を失った日本経済が立ち直ることはむずかしい。今のうちに資産を有効利用してグローバルに投資する経済構造に転換しなければならない。

 要するに日本は貿易立国の時代を過ぎ、減ってゆく所得を金利収入で補う「年金生活者」になったのだ。日本の長期停滞は、円安で解決するような簡単な問題ではない。これから大事なのは、もう余り増えない資産の価値を守ることだが、いまだに高度成長の夢を忘れられない政治家が円の目減りを喜んでいるのは困ったものだ。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

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