コラム

理想的な大統領に自分を投影している、ビル・クリントンの政治スリラー

2018年08月02日(木)15時00分

エキゾチックな東欧出身の女性暗殺者やスパイ、謎のイスラム教テロリスト、ホワイトハウス内の裏切り者など、トム・クランシー、ネルソン・デミル、ジョン・ル・カレを彷彿とさせるところがあり、彼らのファンが楽しめるスリラーだ。しかし、元大統領しか書けない情報が暴露されている本ではない。

『The President Is Missing』のユニークな価値は、ビル・クリントンがダンカンに自分を投影しているところにある。

小説の冒頭は、クリントンがモニカ・ルインスキー事件で弾劾裁判にかけられた事実を思い出させる。この部分には、彼が感じたに違いない共和党やメディアに対する苦々しい心情がにじみ出ている。行間からは「共和党がやったことがどんなに愚かなことか、わかってくれ」というクリントンの思いが読みとれる。

また、ダンカン政権では、FBI長官、副大統領、大統領首席補佐官という主要な地位にあるのが女性であり、この世界ではイスラエル首相も2人の腕利き暗殺者も女性である。ビル・クリントン自身が女性を多く起用した初めての大統領として知られていたが、オバマ大統領に惚れ込んだ若い世代はそれを知らない。クリントンは、自分が女性起用のチャンピオン的存在だったことをこの本で読者に思い出させようとしているのかもしれない。

これらの部分を含め、ダンカンはあまりにも理想的な大統領なのだ。自分の安全よりアメリカを優先し、病死した妻のことを想い続けてデートすらしない。クリントンがダンカンに自己投影をしているのは明らかなのに、その人物が理想的すぎるので、読んでいるこちらが、少し赤面してしまうところもある。

最後の部分でダンカンが蛇足としか言えないようなスピーチをするが、それも、現役の大統領時代に非常に人気が高かった自分のイメージを復活させようとしているように感じてしまった。

ダンカンが妻と出会ったときのエピソードは、ビル・クリントンがヒラリーと会ったときの実話によく似ていて微笑ましいのだが、小説の中ではその最愛の妻は病死している。

ミステリーも良く読むヒラリーは、創作中にこの小説を読んでアドバイスもしたようだ。しかし、フィクションの中で殺されたことや、死んだ後も妻だけを愛しているダンカンについては複雑な思いを抱いたのではないかと想像する。

今度はヒラリーにコメディタッチの小説を書いてもらいたい。その中でフィクションのビルがどう扱われるか、とても興味があるので。

【お知らせ】ニューズウィーク日本版メルマガのご登録を!
気になる北朝鮮問題の動向から英国ロイヤルファミリーの話題まで、世界の動きを
ウイークデーの朝にお届けします。
ご登録(無料)はこちらから=>>

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

中ロ声明「核汚染水」との言及、事実に反し大変遺憾=

ビジネス

年内のEV購入検討する米消費者、前年から減少=調査

ワールド

イスラエル、ラファに追加部隊投入 「ハマス消耗」と

ビジネス

米ミーム株が早くも失速、21年ブームから状況に変化
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 2

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた異常」...「極めて重要な発見」とは?

  • 3

    羽田空港衝突事故で「日航の奇跡」を可能にした、奇跡とは程遠い偉業

  • 4

    存在するはずのない系外惑星「ハルラ」をめぐる謎、…

  • 5

    老化した脳、わずか半年の有酸素運動で若返る=「脳…

  • 6

    アメリカはどうでもよい...弾薬の供与停止も「進撃の…

  • 7

    共同親権法制を実施するうえでの2つの留意点

  • 8

    半分しか当たらない北朝鮮ミサイル、ロシアに供与と…

  • 9

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 10

    総額100万円ほどの負担増...国民年金の納付「5年延長…

  • 1

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 7

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 10

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story