World Voice

ミャンマーでエンタメとクリエイトする日々

新町智哉|ミャンマー

ミャンマーフリーペーパー事業myan myan廃刊とSatWyne誕生秘話

みなさん今晩は。
日本はクリスマス真っ盛りなのでしょうか?
こちらヤンゴンでは昨年よりはクリスマス感があるのかもしれませんが、やはり涼しくなったと言ってもここは暑い国ミャンマー。
日本人の私は中々クリスマスや年末かを感じる事はできません。

さて今回は先月に書いたまま完結していなかったミャンマーフリーペーパー事業完結編です。
先月の記事を読んでいない方には何のこっちゃ全くわからないと思うので、まだ読んでいない方はそちらからどうぞ。

本題の前にお知らせを一つ。
年末年始も変わらず毎週配信します。
「ミャンマー言いたい砲台ラヂオ」
毎週水曜日21時(ミャンマー時間18時半)に日時を変更して行っています。

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ヤンゴンに住むエンターテイナーの変なオッサンと、日本でミャンマーの為に頑張る外語大院生があれやこれやと言いたい放題な番組になっています。
目下最近のテーマは
「いかにミャンマー支援活動している仲間から更に外の人たちへミャンマーの事を伝えるか?」
という事を話しています。

魅惑の国ミャンマーで巻き起こるクーデター禍をいかに生き延びるか。
ミャンマーに関わる人達の生きざまを私たちの目線で伝えています。
是非お聴きください。

それでは本題です。
ヤンゴンで5年続いたフリーペーパー事業を引き継ぐ事になり。
人、物、時間へとことん投資して育ててきたmyan myan(ミャンミャン)
当初5000部程だった部数を年明けに10000部にするとぶち上げそれに向けて準備も進めていました。
実は日本へ一時帰国した際に様々な雑誌を研究して、大きさを一回り大きくする準備もしていました。

印刷所の方と何度も打ち合わせをして、ミャンマーにはこれまでにない型で雑誌を作るという新しいチャレンジです。
出来上がっていればこれも話題になったかもしれません。
新体制になってからはこれまでの顧客の見直しをしていて、実はそれほど積極的に営業はしていませんでした。
先ずは本誌の立て直しが先だと思ったからです。

クオリティはジワジワとしかし確実に上がっていっている手ごたえはありました。
そんな中、年末を前に大型の広告主も決まりました。
それも連絡をもらい一度の話し合いで決まったのです。
来年に向けて飛躍を予期させるには充分な条件が揃いつつあったのです。
しかし、しかし。
とんでもない出来事が2018年の最後に待ち受けていたのです。

「myan myanの名前を返して欲しい」

青天の霹靂とはこういう事でしょうか?
まさか自分の人生でこんな言葉が当てはまる出来事があるとは思いませんでしたが、これは正に青天の霹靂でした。
myan myanの名前を返す、つまりmyan myanという名前を使って雑誌を発行できなくなるのです。

後々にわかったのは、この時のmyan myanの権利を持っていた会社がのっぴきならない状況だったという事、それを打破する為にmyan myanの権利が必要だったという事でした。
しかし、この時私たちはそんな事情は知りません。
更に言うと、そんな事情は知ったこっちゃないという内容でした。
私たちには何の責任もないからです。

っというかそんな事情を隠した?まま事業の引継ぎをやらされていたのか、それともそんな事情すらキチンと把握できていなかったのか。
とにもかくにも「myan myanの名前を返して欲しい」という話。

さて、ここからは皆さん何が起こったか想像できるでしょうか?
血みどろの権利争い?
損害賠償請求?
はたまたオーナーへ殴り込み?

いえいえ。
そんな事は一切ありません。
私は一切の権利を主張しなかったどころか、文句一つも言わずに先方の願いを聞き入れました。
実は私、このmyan myanを取り巻く権利関係一切には手を付けていません。
契約書の一つも交わしていないのです。

そんな中、無償での記事提供から始まり、様々な素材提供、事業費の半分の負担、社員の引き取り、そして全ての事業費を負担するようになり、最後に看板を下ろされたというところです。
このように神輿で担ぎ上げられた後の引きずり下ろしは見事としか言いようがない、お笑いの世界では凄くオイシイところじゃないかと言う位の出来事でした。

怒りが無かった、と言えばウソになります。
残念でならない気持ちはいっぱいありましたが、本当の本当に一切の権利を主張しませんでした。
勿論、一切の金銭的な事も主張していません。
一年かけてやったことは文字通り一円のいや、1チャットの利益も出さずに終了となったのです。

そこは主張しろよと言われた事もありましたが、そんなしょうもない事に時間を使う気はありませんでした。
そもそも私が最も欲しかったのはmyan myanという名前の権利でも5年続いた実績でもそこから得られるかもしれない利益でもなかったからです。

私が最も求めていたのは、
5年続いたフリーペーパー事業史上最大のピンチからの復活劇だったからです。
大変な事だらけでしたが、様々な可能性を作り出す事が出来た事は間違いありません。
それは私と私の会社の仲間たちに大きな経験と知識を与えてくれました。
そして、新しい仲間を迎え入れる事もできました。
あのままであれば埋もれてしまっていたであろうミャンマー人スタッフ達です。
この財産はあの時、ピンチだったmyan myan事業に助け船を出すという選択をしたからこそ産まれたものです。

私は様々準備していたものをストップし、myan myanの廃刊を決め、すぐに次の事業の準備に取り掛かりました。
新しいフリーペーパーの発刊です。
ノウハウは既に全てありました。
戦略も充分に用意してあります。
スタッフも揃っています。

無いのはそう、雑誌の名前だけです。

新しい雑誌はSatWyne(サワイン)と名付けました。
ミャンマー語で「円」の意味を持ちます。
英語の綴りは自分たちで考えて整えました。
この騒動から数か月後、日本語版、そしてミャンマー語版のライセンスを習得する事になります。

そして、このSatWyneという名前は雑誌から今も続く様々なプロジェクトの事業名にもなりますが、それはもう少し先のお話。
どこかの機会でお話出来ればと思います。

いかがだったでしょうか?
一年に渡る新しいチャレンジだった事業がこのような形で幕を閉じるとは思いもよりませんでした。
実はこの時myan myanの為に使った事業資金は本来別の事業の為に用意していたものでした。
そのある事業はこの出来事の為に実に4年の歳月を経た今でもくすぶり続けたままだったのです。

そのある事業、もしかすると来年には皆さんに発表出来るのかもしれません。
今回の話はその新事業をやっとの思いでここまで進めて来て、
ふと思い出したので振り返りとして皆さんにお伝えしたという事でした。

様々な事があるミャンマーエンターテインメントではありますが、まだまだへこたれてはいられません。
今後の私の活躍(珍道中)にもご期待いただければ幸いです。

それではまた。

 

Profile

著者プロフィール
新町智哉

映像プロデューサー。2014年からミャンマー最大都市ヤンゴンに在住。MAKE SENSE ENTERTAINMENT Co.,Ltd. GM。日緬製作スタッフによる短編コメディ「一杯のモヒンガー」でミャンマーワッタン映画祭のノミネートを皮切りに世界各国の映画祭で受賞。起業家、歌手、俳優としてもミャンマーで活動する。

Twitter:@tomoyangon
Instagram:tomoyangon
note:https://note.com/tomoyaan

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