最新記事
インドネシア

最低賃金の「10倍」の議員手当に民衆激怒――それでも揺るがぬインドネシアの寡頭体制

Will Riots Bring Change?

2025年9月10日(水)16時48分
ティム・リンゼー(豪メルボルン大学アジア法研究センター所長)
インドネシア全土で広がる抗議デモ、ジャカルタの議会前で学生が特権政治に抗議し火を焚く様子(2024年)

Oryzapratama/SHUTTERSTOCK

<インドネシア全土に広がる抗議デモは、政治エリートへの怒りをあらわにしている。しかし長年続く寡頭的支配は、なお揺らぐ気配を見せない>

8月下旬に首都ジャカルタから全土に拡大した抗議活動は、多くのインドネシア人に1998年の騒乱を思い起こさせる。30年に及んだスハルトの独裁体制が崩壊したあの時を。

当時と同じように、デモ隊は立法府の建物や、自分たちをないがしろにしする「太った猫」、すなわち政治家を標的にしている。一部は暴徒化して、閣僚らの家を破壊し、高級品を略奪した。


注目すべきは治安部隊の行動だ。警察の暴力行為が報じられる一方で、軍の兵士の一部は略奪を阻止しようとせず、傍観していると言われている。暴徒に飲み物や現金を配った兵士もいたという。

これもまた、98年を思い起こさせる。当時、兵士は抗議者を厳しく弾圧したが、一方で暴動や略奪を助長したとも非難された。陸軍の司令官だった現大統領のプラボウォ・スビアントは、民主活動家の「失踪」などへの関与を疑われて軍を追放された。

現在のジャカルタの状況は98年の時ほど深刻ではないが、数千人の暴徒が富裕層や権力者を標的にすることは、インドネシアの寡頭制(オリガーキー)的なエリート層にとって同じような悪夢だ。

大規模な抗議活動は彼らを躊躇させることができる数少ない手段であり、時に後退を余儀なくさせる。だからこそ、エリート層の中から抗議活動を利用しようとする動きも出てくる。民衆の怒りを、自分たち内輪の権力争いの武器にしようというのだ。

民衆の間では政治家に対する不満が積もり積もっている。今年8月17日の独立記念日に一部の抗議者が国旗の下に海賊旗を掲げると、当局は「反逆」と非難した。

1週間後の25日、国会に当たる国民議会(DPR)の解散を求めるデモが始まった。きっかけは議員の住宅手当が約5000万ルピア(約45万円)増額されることだった。

議員の多くが毎月約1億ルピアの収入を非課税で得ているにもかかわらず(2億ルピアを超える議員もいるという)、副議長は「足りない」と主張した。

ジャカルタの最低賃金は月約540万ルピア。人々は政治家に対し、腐敗していて、怠惰で、現実を知らないという深い憤りを募らせている。

昨年10月にプラボウォが大統領に就任して以降、肝煎りの政策のコストが財政赤字を拡大させ、医療や教育、地方自治体への交付金など基本的な社会サービスが削減されてきた。貧困層は拡大し、中産階級は縮小している。

抗議デモに対する議員たちの反応は傲慢で、ある議員は抗議者を「世界で最も愚かな人々」と呼んだ。

「反逆」「テロ」と警告

当初は比較的、穏やかな抗議だった。しかし28日、ジャカルタのデモ現場の近くで配達中だった21歳のバイクタクシー運転手が、警察車両にひかれて死亡した。

あまりに象徴的な出来事だった。わずかな稼ぎで両親を養っている非正規労働者が、政治エリートの手先が運転する車に押しつぶされたのだ。

抗議活動はジャカルタの警察本部の前からインドネシア全土へと一気に広がった。警察署、政府庁舎、バスや鉄道の駅が標的になった。略奪や放火に発展し、多くの地方議会が破壊された。既に少なくとも7人が死亡している。

プラボウォは抗議者の不満は自分に聞こえていると表明し、DPRは議員手当の一部を廃止すると約束した。ただし、実行され、継続されるかは不透明だ。議員の懐を潤すことはプラボウォ自身の利益にかなうからだ。

一方で、プラボウォは軍人の経歴と「強権的指導者」というイメージを裏切ることなく、抗議者の行為を反逆やテロと呼び、警察に「断固たる」行動を求めている。


今回の事態はエリート層にとって明らかに脅威だが、彼らの中に好機とみている者がいることも確かだ。

見せかけの立憲民主主義

インドネシアの警察と軍は長年にわたり、地位、資金、影響力を競い合ってきた。特殊部隊の司令官も務めたプラボウォは軍の支持を得ているとされる。

それに対し警察長官のリスティヨ・シギット・プラボウォ(大統領と血縁関係はない)は、自分を任命したジョコ・ウィドド前大統領に忠誠を誓っている。ジョコは在任中に警察の予算と人員を大幅に増やした。

昨年の大統領選挙でプラボウォはジョコの「後継者」として勝利したが、両者は目下、権力闘争の最中のようだ。

警察が悪役になれば、ジョコの影響力が弱まるという指摘もある。軍が暴動を傍観し、挑発や支援さえしているのはそのためだというわけだ。プラボウォの最終的な狙いは国家警察を解体して、スハルト時代のように軍の下部組織に戻すことかもしれない。

98年にプラボウォは暴動を操作しようとしたが、権力掌握に失敗したとされる。再び同じような策略を企てても不思議ではないと、多くのインドネシア人が考えている。真偽はともかく、陰謀論が乱れ飛んでいる。

政治エリートに対する長年の不満が、市民団体に導かれて爆発したことは間違いない。だが残念ながら、98年のように街頭デモを統一された運動へと昇華させる明確な政治的要求を、彼らはまだ示すことができていない。

98年の暴動ではエリート層が譲歩した。彼らはスハルトたち有害なメンバー(当時はスハルトの娘婿だったプラボウォを含む)を追放し、見せかけとはいえ、改革派民主主義者として再編成せざるを得なかった。

しかし今回は、少なくとも現時点では、そうなる見込みは低い。インドネシアは99年から立憲民主主義ではあるが、実質的な政治権力は小規模のエリート層が握っている。

実質的な野党勢力は存在せず、形式上は連立政権だが、実態はますます非民主的な支配体制が形成されている。その内部では熾烈な主導権争いが繰り広げられていても、外部からの圧力に対しては極めて強靭に抵抗する。

権威主義的傾向が強いと評されるプラボウォは、暴動への対応を利用して、権力をさらに強化するかもしれない。暴動が続けば戒厳令が敷かれるという見方もある。

つまり、現在の混乱が収束し、プラボウォとその側近が十分な支配力を取り戻したと感じた時点で、民主化運動や抗議活動のリーダーに対する過酷な弾圧が始まるかもしれない。その可能性は極めて現実味を帯びている。

The Conversation

Tim Lindsey, Malcolm Smith Professor of Asian Law and Director of the Centre for Indonesian Law, Islam and Society, The University of Melbourne

This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.



ニューズウィーク日本版 世界が尊敬する日本の小説36
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2025年9月16日/23日号(9月9日発売)は「世界が尊敬する日本の小説36」特集。優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

※バックナンバーが読み放題となる定期購読はこちら


食と健康
「60代でも働き盛り」 社員の健康に資する常備型社食サービス、利用拡大を支えるのは「シニア世代の活躍」
あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ポーランド、ロシア無人機を撃墜 意図的侵入との見方

ビジネス

メタとTikTok、EUの法順守監督手数料巡る裁判

ビジネス

バークレイズ、S&P500の年末目標を上方修正 3

ビジネス

インタビュー:赤字の債券トレーディング再編、連携強
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 2
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題」』に書かれている実態
  • 3
    エコー写真を見て「医師は困惑していた」...中絶を拒否した母親、医師の予想を超えた出産を語る
  • 4
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 5
    カップルに背後から突進...巨大動物「まさかの不意打…
  • 6
    富裕層のトランプ離れが加速──関税政策で支持率が最…
  • 7
    毎朝10回スクワットで恋も人生も変わる――和田秀樹流…
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    ドイツAfD候補者6人が急死...州選挙直前の相次ぐ死に…
  • 10
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にす…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニングをする女性、異変を感じ、背後に「見えたモノ」にSNS震撼
  • 4
    眠らないと脳にゴミがたまる...「脳を守る」3つの習…
  • 5
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題…
  • 6
    【動画あり】9月初旬に複数の小惑星が地球に接近...…
  • 7
    「あのホラー映画が現実に...」カヤック中の男性に接…
  • 8
    「生きられない」と生後数日で手放された2本脚のダ…
  • 9
    エコー写真を見て「医師は困惑していた」...中絶を拒…
  • 10
    「稼げる」はずの豪ワーホリで搾取される日本人..給…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 6
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
  • 9
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 10
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中