最新記事

中東

UAE・イスラエル和平合意の実現──捨て去られた「アラブの大義」

2020年8月15日(土)12時55分
錦田愛子

紛争の構図の変化

そして紛争の構造は、アラブ・イスラエル紛争からパレスチナ・イスラエル紛争へ変わり、一地域内での問題へと矮小化されていくことになる。その変化を決定づけたのは、1993年のオスロ合意といえるだろう。それまでヨルダンを通じた共同代表としてしか和平交渉に参加できなかったパレスチナが、PLO(パレスチナ解放機構)とイスラエルの相互承認により、直接対話で交渉することができるようになった。パレスチナ側を代表する機関として自治政府が作られ、立法評議会選挙が行われることで、一部の住民の間のみとはいえ民主的にパレスチナを代表する政治アクターが選出されることになったからである。

こうした流れの中で、アラブの連帯はさらに意味を失っていった。ヨルダンはイスラエルとの間で1994年に平和条約を締結し、経済活動などでの協力を進めた。パレスチナ系住民の多いヨルダン国内では、その後もこの合意の撤回を求める運動が労働組合を中心に続いているが、政権を動かせるほどの影響力はない。そして今回、26年ぶりにアラブ諸国との間で新たに交わされたのが、UAEとイスラエルの国交正常化の合意だった。中東和平交渉の傘の下とはいえ、対イスラエル和平という数十年来のタブーを実質的に破ることに対して、非難の声を上げたのは、もはやパレスチナ人のみであった。

マナーマ会議の先に

湾岸アラブ諸国とイスラエルの間で進む関係正常化は、大筋の流れとして、昨年6月にバーレーンのマナーマで開かれたトランプ主導の経済会合の延長線上に位置づけられる。この時の会議でクシュナー米大統領上級顧問は、政治的解決案に先立ち、中東和平の経済的側面を話し合うとして、対パレスチナ投資の資金協力について協議を行った。とはいえ、パレスチナ、イスラエル双方の代表は不在であり、集まったのはバーレーン、サウジアラビア、UAEなどの閣僚と起業家に限られた。中東和平を掲げるものの、この会議の真の目的が、湾岸アラブ諸国とアメリカ、その支援を受けるイスラエルとの間での関係構築にあったといっても過言ではないだろう。

今年1月にトランプ大統領が中東和平の政治案として「世紀のディール」を発表した際も、UAE代表はホワイトハウスで開かれたレセプションに参加していた。今回の共同声明でも、そのときの賛同姿勢に対してアメリカ側から謝意が述べられている。クシュナーは近日中にまた一国がイスラエルと関係を正常化することを示唆しているが、このときにUAEと共に同席していたバーレーン、オマーンはその有力な候補だ。だがそれは、アメリカやイスラエルが称揚するように、積年のパレスチナ問題が解決され、中東が平和な状態に向かうことを意味しない。

中東和平は進むのか

今回の関係正常化合意では、UAEがイスラエルによる西岸地区の入植地の併合停止を条件として求めた、という内容が、あたかもパレスチナでの和平を推進したかのように報道されている。だがこれは、アラブ諸国内での「裏切り」を正当化するための虚飾に過ぎない。7月1日に予定されていた併合の動きは、国際的に強い批判を浴びたイスラエル自身によってもともと遂行が延期され、アメリカの反応をうかがう様子見の状態が続いていたからだ。UAEの動きがそこに取り立てて何かの変化をもたらしたわけではない。

マナーマ会議のときのように、中東和平の推進を隠れ蓑に、実質的な経済協力を進めていくスタイルは、今回の国交正常化でも踏襲されている。そうした意味では、今後ともアラブ諸国が形式的に「大義」を傘に着ながら、自国の利益優先の協定を結ぶというやり方を、今回のUAEの合意は確立しつつあるといえるだろう。合意の共同声明が述べるように、これが「UAEとイスラエルの勇気の証だ」とすれば、それは1940年代以来のアラブ諸国の協調の枠組みを破棄し、経済利得のためにパレスチナという大義を捨てることを決断した「勇気」のことを指す。それが「この地域の大きな潜在力を解き放つ新しい道」を描いたことは間違いない。

中東域内政治の枠組みで、注目されるのはサウジアラビアの今後の動向だ。パレスチナ自治区内での抵抗運動をほぼ制御下に置いたイスラエルは、近年ではイランの脅威を強調することで国内世論の支持を得ている。湾岸地域でのイランの最大のライバルであるサウジアラビアを公式に味方につけることができれば、この地域の地政学を大きく動かすことになる。そしてアラブ和平イニシアチブを主導し、イスラエルとの和平に積極的な姿勢を2000年代から示してきたサウジアラビアが、その方向に一歩を踏み出す日は、それほど遠くないだろう。

他方で当事者であるパレスチナ側が、和平協議に加われる見通しはきわめて暗い。パレスチナ自治政府は13年間にわたり、ファタハとハマースの間で二つに内部分裂したままで、指導力は地に落ちている。2005年以来、後任をめぐる選挙が行えないまま84歳を迎えたマフムード・アッバース大統領は、健康不安説が何度も浮上している。トランプ政権によるエルサレムへの大使館移転に抗議して、自治政府はアメリカ主導の交渉への参加をボイコットしており、今後の和平協議にも復帰する見通しは立たない。

このままでは当事者不在のまま、交渉が進められ、イスラエル兵による厳重な警護の中、地元エルサレム住民の怨嗟を浴びながら、アブダビ首長国のムハンマド・ビン=ザイド皇太子がアル=アクサー・モスクで礼拝にあげる日もそう遠くはないかもしれない。そして今度はシャロンのときのように、大規模な抗議運動を起こせる力が、パレスチナの民衆の間にはもはや残っていないかもしれない。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ガザ全域で通信遮断、イスラエル軍の地上作戦拡大の兆

ワールド

トランプ氏、プーチン氏に「失望」 英首相とウクライ

ワールド

インフレ対応で経済成長を意図的に抑制、景気後退は遠

ビジネス

FRB利下げ「良い第一歩」、幅広い合意= ハセット
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「何だこれは...」クルーズ船の客室に出現した「謎の物体」にSNS大爆笑、「深海魚」説に「カニ」説も?
  • 2
    燃え上がる「ロシア最大級の製油所」...ウクライナ軍、夜間に大規模ドローン攻撃 国境から約1300キロ
  • 3
    1年で1000万人が死亡の可能性...迫る「スーパーバグ」感染爆発に対抗できる「100年前に忘れられた」治療法とは?
  • 4
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    アジア作品に日本人はいない? 伊坂幸太郎原作『ブ…
  • 7
    中国山東省の住民が、「軍のミサイルが謎の物体を撃…
  • 8
    ケージを掃除中の飼い主にジャーマンシェパードがま…
  • 9
    中国経済をむしばむ「内巻」現象とは?
  • 10
    「ゾンビに襲われてるのかと...」荒野で車が立ち往生…
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる」飲み物はどれ?
  • 4
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 5
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 6
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    電車内で「ウクライナ難民の女性」が襲われた驚愕シ…
  • 10
    「何だこれは...」クルーズ船の客室に出現した「謎の…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 7
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 8
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 9
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 10
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中