最新記事

ロックスター

自伝でうつ病を告白したスプリングスティーンの真意

2016年10月3日(月)19時21分
アレックス・ルーベト(米ミネソタ大学教授、専門は音楽)

Carlo Allegri-REUTERS

<アメリカで先月末に発売した自伝でうつ病に悩まされた過去を告白。これまでも社会正義のために献身してきたボスのメッセージとは> (写真は2014年12月、ニューヨークで行われたエイズ患者のためのチャリティー・コンサートで)

 アメリカのEストリート・バンドのギタリスト、スティーヴ・ヴァン・ザントはかつて、バンドを率いるブルース・スプリングスティーンが薬物に手を出さなかった理由について、父親のようにうつ病を患うことを心配したからだと語っていた。だがスプリングスティーンは、それよりずっと前からうつに悩まされていた。

 9月28日に発売された自伝『Born to Run』のなかで、米ロック歌手のブルース・スプリングスティーンが長年うつ病に悩まされていた過去を告白し、多くのファンを驚かせた。メディアやネットもその話題で持ちきりだ。

 ひと昔前なら、この手のカミングアウトをすれば厳しい結果を招いたものだ。1972年の米大統領選では、民主党副大統領候補のトマス・イーグルトンがうつ病の治療を受けていたことが判明し、選挙への影響を懸念した大統領候補のジョージ・マクガバンにクビにされた。あの頃と比べると、今は精神疾患に対する社会の偏見もいくらかは解消された。ロック界の「ボス」がこれぐらいのことで障害にぶち当たることはない。

【参考記事】うつには薬よりウォーキングが効く?

 それに、スプリングスティーンは長年、社会正義のために献身的に取り組んできたロックスターだ。自伝で自身のうつ病について書いたのは、新たな守護神役を引き受けるためだろう。今なお根強いうつ病に対する先入観や偏見と戦うのだ。

ミュージシャンには少なくない

 うつ病に悩むロックスターやポップスターは珍しくない。ビヨンセをはじめ、エリック・クラプトン、カート・コバーン、シェリル・クロウ、ビリー・ジョエル、ジョン・ボン・ジョヴィ、アリシア・キーズ、レディ・ガガ、ジョン・レノン、アラニス・モリセット、ブライアン・ウィルソンなどもそうだ。医者による診断は受けていないが、うつ症状が原因で薬物やアルコールを摂取しているアーティストを含めると、リストは膨大なものになる。一部の医学論文は、ロックスターという職業は強いストレスをもたらすと警鐘を鳴らす。

 スプリングスティーンの告白がユニークなのは、彼の人物像がうつ病に対する先入観からかけ離れているからだ。ある研究によると、メディアは精神疾患に関するネガティブな先入観を世間に広げてきた。「能力的に不適格で、好感度が低く、危険」で「職業も不定の場合が多く、困惑気味で攻撃的、予測不可能な人々」だ。

【参考記事】貧困国発のうつ病クライシス

 カナダのクイーンズ大学のヘザー・スチュアート教授(公衆衛生学)によると、メディアのそうした描写が「患者に対する恐怖や拒絶、嘲笑、侮辱といったネガティブな反応の原因になり、患者の心を傷つけ、助けを求めることを思い止まらせ、服薬や回復の妨げになる」という。彼女はそうしたネガティブな思い込みが今なお蔓延している責任は、メディアにあると指摘する。

 スプリングスティーンはそうした先入観に立ち向かっている。

 数々の進歩的な主張を掲げ、労働者階級の倫理観や家族の価値、情熱的でリベラルな愛国心に全力で力を注いだボスは、陰うつな雰囲気を漂わせ死のイメージが強いジム・モリソンとは全く対照的だ。ロックバンド「ドアーズ」のボーカルだったモリソンは、目まぐるしく荒れ狂うライフスタイルに疲れ果て、27歳で他界した他のロック・ミュージシャンらとともに「27クラブ」の仲間になった。

 1991年にバンド仲間だったパティ・シャルファと結婚し、3人の子に恵まれたスプリングスティーンは、安定した家庭生活を送ってきた。体力作りも欠かさない。伝説的なスタミナを保つ秘訣だろう。100公演以上をこなした今夏のツアー中、67歳の誕生日を前に全33曲を4時間近く歌い続けたことも話題になった。

 うつ病の治療のため、数十年以上にわたってカウンセリングと抗うつ剤を併用してきた。アーティストの多くは、創作力が損なわれるのを恐れて抗うつ剤の使用を敬遠するが、彼は違った。ツアーを行うことが最良の精神療法だとも言った。「コンサートの数時間は、自分自身が解放される。頭の中の雑音が消し去られる。聞こえなくなるんだ。そこに雑音が入り込む余地はない。自分の声しか聞こえない」

妻のシャルファも応援

 それでもなお、精神疾患を恥と思う風潮は社会に深く根付いたままだ。ある精神科医のグループは、ほとんどの患者が医師の治療を受けていない実態を報告した。その背景には、症状や治療についての知識不足や偏見などのほか、知られるのが恥ずかしいという思いがある。恥は、うつ病などの患者が治療を望まない最大の要因だ。

 だが、スプリングスティーンは恥じてはいない。スプリングスティーンの妻のシャルファも当初、数百万人の人が読む自伝で、夫が自らのうつ病について告白することを不安に感じていた。だが結局、夫を応援することにした。米月刊誌の「バニティ・フェア」で、彼の葛藤は芸術性と密接に結び付いていると語った。

「あれがブルースという人なの。彼はまるで歌詞を書くのと同じように、自伝の執筆にも取り組んだ。人は何かを書くことを通じて、自分が追い求めてきた答えを見出すこともある。そういう意味でも、彼がうつについて書くのは素晴らしいことだと思う。彼の作品の多くは、うつだった自分の葛藤を乗り越えようとして生まれたものだから」

 スプリングスティーンはうつ病にありがちな社会的孤立とは一線を画し、公の場で、ファンを目の前にして声を上げることで、うつと戦ってきた。

 社会的弱者の擁護者として、彼は今、私たち一人ひとりのために自らの過去を明かしたのだ。

The Conversation

Alex Lubet, Morse Alumni Distinguished Teaching Professor of Music, University of Minnesota

This article was originally published on The Conversation. Read the original article.

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

石破首相「双方の利益になるよう最大限努力」、G7で

ワールド

米中貿易枠組み合意、軍事用レアアース問題が未解決=

ワールド

独仏英、イランに核開発巡る協議を提案 中東の緊張緩

ワールド

イスラエルとイランの応酬続く、トランプ氏「紛争終結
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 7
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 8
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 9
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 10
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 5
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 9
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中