最新記事

歴史

1989年5月、冷戦終焉の足音が聞こえた

今から20年前、ベルリンの壁崩壊に先立つこと6カ月。のちの共産陣営の「大なだれ」につながる小さな亀裂がハンガリーで生まれた

2009年5月7日(木)20時03分
マイケル・マイヤー

雪崩の始まり 国境の「鉄のカーテン」を切断するハンガリーのジュラ・ホルン外相(右)とオーストリアのアロイス・モック外相(1989年6月27日)Reuters

 エーリヒ・ホーネッカーは、それが議長としての最後のメーデーになるとは考えてもいなかった。

 1989年5月1日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国家評議会議長だったホーネッカーは、東ベルリンの観閲台に立ち、四方を埋め尽くす兵士たちの行進と、自由ドイツ青年団(政権政党だったドイツ社会主義統一党の青年組織)の旗を見つめていた。太陽は輝き、いかにもおじいちゃんといった風情のホーネッカーの白髪は柔らかな風になびいていた。

 共産陣営の国々はこの日、各地でマルキシズムとその軍事力のたたえる毎年恒例の行事を行っていた。だが、共産圏を破壊することになる暴風は徐々に迫っていた。

 その数カ月後に次々起きた共産主義を終焉させる出来事のなかでも、特筆すべきは89年11月のベルリンの壁崩壊だろう。アメリカ人にとっては最高の瞬間であり、冷戦における西側の勝利を象徴する事件だった。

 だが現場で東側陣営の崩壊を目の当たりにした私に言わせれば、その過程は人々が思っているよりも長く、複雑なものだった。多くの歴史書は、すべての発端となり、そして最終的に欧州の地図を塗り替えることになった「大胆な策略」にほとんど注意を払っていない。

 ホーネッカーが雲ひとつない青空の下でのメーデーを謳歌していたとき、約640キロ離れたハンガリーの首都ブタペストでは、ミクローシュ・ネーメト首相が陰鬱な雨の中を重い足取りで歩いていた。ハンガリーの政権与党、社会主義労働者党の共産主主義者たちは高まる不満に応える形で、政府のパレードではなく民衆による「ピクニック」を行った。ネーメトもそれに参加した。

 肌寒い小雨の中、改革志向の経済学者であるネーメトは、社会主義労働者党書記長カーロイ・グロースの話に耳を傾けていた。元植字工のグロースは、ネーメトの漸進的な政策を酷評した。彼が民主主義と自由選挙、そして自由市場と資本主義によって国家の破壊を目論んでいる、と。

 グロースはほとんど唾を吐きかけんばかりだったと、後にネーメトは振り返っている。「今はあなたの時代かもしれない」と、ネーメトは別れ際に書記長に言った。「しかし私の時代がくるのもそう遠くない」

 ネーメトが言ったことは本当だった。翌5月2日、ネーメトと彼の政府は想像もできない行動に出た。共産主義の鉄のカーテンに風穴を開けたのだ。ネーメトと改革支持者たちは、ネーメトが88年12月に首相に就任してから数カ月間、ずっと計画を練りこんでいた。

 その数日前から、彼らは「特別なイベント」のためと称して外国メディアをオーストリアとの国境沿いに招待していた。そしてテレビカメラの前で、国境沿いに建てられた電流の流れるフェンスは「時代錯誤」だとぶちまけた。ハンガリー軍の兵士たちは、巨大なワイヤカッターで40年以上も東西を分断してきた有刺鉄線を切断した。

「あいつらハンガリー人は一体何をしているんだ」と、翌朝の政治局会議でホーネッカーは叫んだ。その数週間後に東ドイツは夏休みに入る予定で、ハンガリーは彼らのお気に入りの旅行先だった。計画経済と一定の自由経済が交ざった「グラーシュ経済」(グラーシュはハンガリーの代表的料理だ)のおかげで、ハンガリーではほかの共産圏と違っておいしいレストランや十分な食料、良質なワインを楽しめた。

 ホーネッカーにとってこの出来事は、1961年に西ドイツに逃亡する東ドイツ人を阻止するためベルリンの壁が造られて以来の悪夢だった。ネーメトによる国境フェンスの破壊は、休暇目的でハンガリーに出国する東ドイツ人にとって、そのままハンガリーの開かれた国境を通って西側の世界に逃亡してもいいという公開の招待状のようなものだった。

 実際にそれは現実になった。6月にハンガリー人は再びフェンスを切断。「陰謀者」たちは西ドイツのヘルムート・コール首相らと相談しながら次の戦略を練り、8月19日に「汎ヨーロッパピクニック」と喧伝された集会を行った。数百人の東ドイツ人旅行客が国境の柵にあいた穴からオーストリアへと逃げ出し、翌月ハンガリーは国境を開放。本誌はその様子を「大脱走」と報じた。そしてこの大移動が、3カ月後のベルリンの壁崩壊につながった。

 20年後の今、いまだに不思議に思うことがある。多くの専門家が共産圏の崩壊を「予期できなかった」と話していることだ。メーデー、いやその前から雪崩の前のきしむ音や雪塊の亀裂のような兆候はあったのに。

 冷戦はあまりにも長く続き、変化が起きるとは想像もできなかった。だが、自由は最後には開花したのだ。

*1989年当時、マイヤーはドイツと東ヨーロッパを担当するニューズウィークの特派員だった。この記事は今年9月にサイモン&シュスター社から出版予定の著書『世界を変えた1年(The Year That Changed the World)』から抜粋した。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

イランとイスラエル、再び互いを攻撃 米との対話不透

ワールド

米が防衛費3.5%要求、日本は2プラス2会合見送り

ビジネス

トヨタが米国で値上げ、7月から平均3万円超 関税の

ワールド

トランプ大統領、ハーバード大との和解示唆 来週中に
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:コメ高騰の真犯人
特集:コメ高騰の真犯人
2025年6月24日号(6/17発売)

なぜ米価は突然上がり、これからどうなるのか? コメ高騰の原因と「犯人」を探る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の「緊迫映像」
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    イランとイスラエルの戦争、米国より中国の「ダメー…
  • 6
    【クイズ】次のうち、中国の資金援助を受けていない…
  • 7
    ジョージ王子が「王室流エチケット」を伝授する姿が…
  • 8
    イギリスを悩ます「安楽死」法の重さ
  • 9
    中国人ジャーナリストが日本のホームレスを3年間取材…
  • 10
    「巨大キノコ雲」が空を覆う瞬間...レウォトビ火山の…
  • 1
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 2
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の「緊迫映像」
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 5
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 6
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
  • 7
    イタリアにある欧州最大の活火山が10年ぶりの大噴火.…
  • 8
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?.…
  • 9
    「アメリカにディズニー旅行」は夢のまた夢?...ディ…
  • 10
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊の瞬間を捉えた「恐怖の映像」に広がる波紋
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 5
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 6
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 7
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 8
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 9
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中