スプリングスティーン伝説の宅録『ネブラスカ』と、映画『孤独のハイウェイ』に通底する「なんだ、これ?」感とは
Born to Run but Stumbles Halfway
「身近すぎる本人」の罠
本作は思いがけない物語を可能な限りありきたりに語る。嫌われることを恐れなければ、違った作品になっただろう。
残念な話だ。原作であるウォーレン・ゼインズの著書『デリバー・ミー・フロム・ノーウェア』は凡庸さとは程遠い。筆者が読んだなかで最も魅力的な「制作の裏側」ものの1つで、伝記と批評、文化・テクノロジー史、業界ネタを見事に組み合わせている。
これを映画化したいと思ったのはよく分かるが、本質的な問題になぜ気付かなかったのか。ゼインズの著書の原動力は、読者を導くゼインズ自身の語り口にある、と。
映画版では、代わりとなる工夫を凝らすこともなく、ゼインズの言葉がさまざまな登場人物の口から不自然に語られる。
スプリングスティーン役のジェレミー・アレン・ホワイトは、間違いなく素晴らしい。物まねに陥ることなく、スプリングスティーンの曲を正確かつ情熱的に歌い、演奏してみせる(本作のためにゼロから特訓したという)。
製作側によれば、目指したのは特定の状況にいるミュージシャンの映画を作ること。そのミュージシャンが、スプリングスティーンだったというわけだ。





