世界が尊敬する日本の伝説的CEOに学ぶ「経営哲学」【note限定公開記事】
LEGENDARY TITANS

ALAN BANDーFOX PHOTOS/GETTY IMAGES
<日本には製造業の原点を見つめ、従業員を大事にし世の中の役に立つことを信念とする経営者たちがいた>
人は客観的な基準に基づく比較級の議論よりも、主観で選ぶ最上級の議論に熱くなる。史上最強のアスリートは誰か? 最高のロックバンドは? 最高の大統領は?
筆者も最近、経済面で最高のパフォーマンスを見せた国はどこかを友人たちと論じ合った。言うまでもないが、このテーマであれば必ず候補に挙がるのは第2次大戦後の復興期における日本だ。
客観的な数値は山ほどある。20年で約5000%増のGNP(国民総生産)。平均で10%に達した年間の経済成長率。1960年代の7年間で倍増した経済規模、等々。どれも立派な数字だが、これだけでは人は熱くならない。
だから私は、戦後日本経済の「奇跡」を裏付けるため、優れて主観的な話をした。私自身が80年代(子供時代)と90年代(十代の時期)に夢中になり、ついには動詞となった日本ブランドの話だ。
その名は任天堂。当時の私は「スーパーマリオブラザーズ」や「ゼルダの伝説」に小遣いのほぼ全額をつぎ込み、暇さえあれば友人たちと「レッツニンテンドー!」だった。
私が一番夢中になったのはアメリカン・フットボールをゲーム化した「テクモボウル」。太平洋の向こうのアメリカで大人気の競技を日本のゲームメーカーが商品化し、アメリカ人の心(と時間、そして財布)をわしづかみにした。任天堂のファミコンがなければ、テクモボウルが生まれることもなかったのだ。
強烈な個性よりも仲間うちの調和と協調を重視する日本社会で、なぜ世界を席巻する商品が生まれたのか。答えは山内溥のようなレジェンド経営者の存在にありそうだ。
創業者の曽孫である山内はわずか22歳で社長に就任し、半世紀以上にわたって任天堂を率いた。元は花札の製造販売で稼いでいた家業を、彼はエレクトロニクスを駆使した革新的な玩具やゲームのパイオニアに育てた。
家族主義的な経営哲学
大胆な革新を愛する山内はタクシー業やレストラン経営にまで手を広げ、新たな収益源を探した。その多くは失敗だったが、中には想定外の大成功もあり、少なくとも一時期、任天堂の名は「ゲーム」の代名詞となった。
山内はある日、工場の装置で何かをつかみ、引き寄せて遊んでいる男を見つけた。面白いと直感した山内は、その男・横井軍平に商品開発を命じた。結果が1967年発売の「ウルトラハンド」。100万個以上が売れ、当時としては大ヒット作となった。
さらに、横井の下には後に「スーパーマリオ」の生みの親となる宮本茂がいた。あの「ドンキーコング」は、この2人の共作である。
山内はブランディングの天才でもあった。初代ファミコンがリコールという挫折を経験したときも、素早く軌道修正して海外市場には「ニンテンドー・エンターテインメント・システム(NES)」という名で送り出した。
品質管理と職人技に対する山内のこだわりは、とりわけテレビゲーム市場が失速していたアメリカで信頼を取り戻し、「家族」や「友情」をテーマにしたゲームを前面に出すことで人気を復活させた。「経営の神様」と評された松下電器産業(現パナソニックHD)の松下幸之助もまた、山内同様に気骨がある希代の経営者だ。
松下は「社員は会社の宝」という信念を掲げ、人材の管理にこだわり抜いた人物としても知られる。従業員を家族と同様に扱い、絶対に解雇しないという家族主義的な経営哲学を堅持した。いわゆる終身雇用の概念を日本に植え付けた立役者とも言えよう。
彼は労働と心を結び付けて考えており、著書では「『人はパンのみにて生きるにあらず』という言葉があるが、人はまたパンなしでは生きられない。物質面での豊かさが極めて大事なのも事実」と論じている。心も身も豊かになって初めて、真の幸せがもたらされると考えていた。
ひらめき力と不屈の精神
任天堂の山内同様、松下も何げない観察から革新的なひらめきを得ていた。路面電車が走るのを見て「これからは電気の時代だ」と直感した松下は、大阪電灯(現関西電力)に就職。後に自ら会社を起こして新型ソケットの開発に取り組んで、独立する。
世界恐慌後の1930年代には、従業員の半数を解雇すべきだと進言されたが、松下はこれを拒否し「貧困に打ち勝つことがメーカーの使命」だと語ったという。ものが売れないときこそ新規事業に投資し、新製品を世に送り出せ。そういう使命感である。
そんな彼のたくましさは、第2次大戦後の日本の驚くべき復興を象徴するものだ。学び、意見を交換するために訪米した彼は「生産こそ復興の基盤」だと力説した。
市場原理に従えば、できるだけ多くの人に基本的な電気製品による生活の向上をもたらすことができるとも考えていた。彼はこんな趣旨の発言も残している。「利益を上げられなければ、社会に対してある種の罪を犯すことになる。私たちは社会の資本を奪い、人材を奪い、材料を奪う。ろくな利益も得られないなら、私たちはほかの場所でもっと有効に使えるはずの貴重な資源を無駄にしている」
松下の父親は中流の上の家庭に生まれたものの、商品市場への投機で全てを失ったため、松下は小学4年生で奉公に出た。父親は彼にこう言ったという。「商売で身を立てよ。商売で成功すれば立派な人を雇うこともできる」
15歳で大阪電灯に入社すると、たちまち昇格した松下は仕事に励んだ。パナソニックを世界最高の社会的機関に押し上げたのは、仕事への燃え上がる熱意だった。
パナソニックの特徴は、分権的な経営と「事業部」モデルによる会社構成で、会社の中に会社をつくるというコンセプトだ。松下の死後も彼の知恵は人々を啓発している。
今をときめくイーロン・マスクやマーク・ザッカーバーグのような産業界の大物も、いまだ自らの名を冠した経営哲学を持っていないが、膨大な発言記録や音声データを基に開発された「松下幸之助再現AI」から、彼の理念と哲学を知ることができる。
本田宗一郎にも、経営陣と労働者の緊密な関係を個々人の喜びで結び付ける哲学「ホンダ・ウェイ」があった。
本田は自動車の輸入を制限することは、世界市場での日本製品の敗北につながると信じていた。創造的な思想家で、スパナを手にしたほうがよく考えられると語っていた本田は、戦後の日本ができるだけ早く、しかも手頃な費用で輸送手段を改善しなければならないことを知っていた。
製品で消費者をリード
1946年、本田は自転車に補助エンジンを後付けする技術を発明し、自らの会社を起こした。彼は世界最高の製品を生産することに熱意を傾け、常に製品開発に最適な人材の確保に注力した。「気に入った人間ばかり入れるな。理解できる人間ばかり入れるな。それでは、君たち人事担当者以上の人間は採用できない」。それが信念だった。
パフォーマンスは競争を通じて向上するという思いが、国際的な競争に打ち勝つ願望につながった。彼は「ショールームであれサーキットであれ」「世界のトップ企業」との「無制限の競争」に挑み続けた。
私が日本を訪れるたびに感じる魅力の1つは、サービス提供者が常に私の考えていることを正確に把握していることだ。ホンダはこの真摯な共感を模範とし、従業員にはできる限り顧客の立場に立つよう命じていた。
1970年にアメリカで大気中への排ガスを規制する法律が制定されると、ホンダは独自のCVCCエンジンを開発し、新法に適合した唯一のエンジンとしてアメリカ市場を席巻した。最も厳しい制約の下で成功を収めたホンダは、日本の骨太な創意工夫を象徴する存在となった。
産業界の巨人たちに共通する「3本の柱」
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