最新記事

農業

「58円の野菜ですら丁寧に包装」 日本の農家がやりがい搾取の沼にハマる根本問題

2022年2月7日(月)12時00分
野口憲一(民俗学者) *PRESIDENT Onlineからの転載

日本にはこの時、ヨーロッパから「労働」という働き方ももたらされました。要するに「働くときは全身全霊で働く。そこに遊びを持ち込むなんて怪しからん」という価値観です。ヨーロッパにおける労働がこのような価値観だったのは、古代からヨーロッパにおいては労働とは奴隷が行うことだったからです。ドイツの政治哲学者であるハンナ・アレントは、主著『人間の条件』の中で、古代ギリシャ以来のヨーロッパ的な労働を概観した上で、次のように述べています。


「労働することは必然〔必要〕によって奴隷化されることであり、この奴隷化は人間生活の条件に固有のものであった。人間は生命の必要物によって支配されている。だからこそ、必然〔必要〕に屈服せざるをえなかった奴隷を支配することによってのみ自由を得ることができた」(『人間の条件』137頁)

要するに、労働とは生活するための必要性に迫られて、嫌々ながらもするしかない単なる苦役だということです。

それでは、ヨーロッパで実際に労働に従事している人々には、労働の楽しみがなかったのか。私にはそうは思えません。どんな辛い日常の中でも希望を見出して生きるのが人間だからです。労働を単に必要性に迫られた奴隷的な活動であると一方的に決めつける超越論的な視点は、あまりに上から目線でしょう。それでも、労働の中に楽しみを見出す考え方は、ヨーロッパ社会の支配的な価値観とはなりませんでした。

ヨーロッパは階級社会として成立したこともあり、近代化以降もこの考え方は大きく覆されることはありませんでした。身分が低い人の労働観を掬い上げて言語化し、それを支配的な労働に対する価値観の中に組み込むということにはならなかったのです。貴族にせよ資本家にせよ、労働者を雇用している人にしてみれば、労働者は労働に楽しみなど見出さず一心不乱に働いてもらった方が「合理的」だと考えたからです。

このように、日本が輸入したヨーロッパの「労働」には、必要性に迫られた「苦役」の考え方が根強く存在しており、労働に従事する労働者に対する差別意識が根強く存在していたのです。

遊びの要素を含んだ日本の働き方

一方、日本では、ヨーロッパ由来の労働観がかなり根付いた現在でさえ、勤勉に働くこと、額に汗して働くことは美徳であるという価値観が明らかに備わっています。それは、労働に対しての差別さえ含んだ強烈なマイナスイメージとは全く異なる価値観です。この理由は様々ですが、その一つは伝統的な日本社会の働き方が「労働」ではなかったことにあります。

伝統的な日本人の働き方は、ヨーロッパ社会における労働のような必要性に迫られた苦役ではなく、「遊び」の要素を含んでいたとされます。このような働き方が「仕事」です。民俗学では、現在の日本でも農業や漁業のような自然を対象とした仕事の中には、このような古いタイプの働き方が残っているという研究がなされています。

農業のような自然を対象とした仕事は、他の産業よりもはるかに古くから存在しているため、古いタイプの価値観がより強く温存され続けてきたのでしょう。もちろん農業は色々な面で他の産業より近代化のスピードが遅れていたという面もあります。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ビジネス

午後3時のドルは150円半ばで上昇一服、米雇用統計

ワールド

石破首相「影響緩和に万全尽くす」、相互関税の米大統

ビジネス

関税による輸出採算悪化、賃上げへの影響に不確実性=

ワールド

インド製造業PMI、7月改定値16カ月ぶり高水準 
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプ関税15%の衝撃
特集:トランプ関税15%の衝撃
2025年8月 5日号(7/29発売)

例外的に低い日本への税率は同盟国への配慮か、ディールの罠か

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本人の児童買春ツアーに外務省が異例の警告
  • 2
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅で簡単にできる3つのリハビリ法
  • 3
    いま玄関に「最悪の来訪者」が...ドアベルカメラから送られてきた「悪夢の光景」に女性戦慄 「這いずり回る姿に衝撃...」
  • 4
    12歳の娘の「初潮パーティー」を阻止した父親の投稿…
  • 5
    枕元に響く「不気味な咀嚼音...」飛び起きた女性が目…
  • 6
    一帯に轟く爆発音...空を横切り、ロシア重要施設に突…
  • 7
    【クイズ】1位は韓国...世界で2番目に「出生率が低い…
  • 8
    【クイズ】2010~20年にかけて、キリスト教徒が「多…
  • 9
    カムチャツカも東日本もスマトラ島沖も──史上最大級…
  • 10
    街中に濁流がなだれ込む...30人以上の死者を出した中…
  • 1
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅で簡単にできる3つのリハビリ法
  • 2
    幸せホルモン「セロトニン」があなたを変える──4つの習慣で脳が目覚める「セロ活」生活のすすめ
  • 3
    囚人はなぜ筋肉質なのか?...「シックスパック」は夜つくられる
  • 4
    いきなり目の前にヒグマが現れたら、何をすべき? 経…
  • 5
    航空機パイロットはなぜ乗員乗客を道連れに「無理心…
  • 6
    中国が強行する「人類史上最大」ダム建設...生態系や…
  • 7
    日本人の児童買春ツアーに外務省が異例の警告
  • 8
    いま玄関に「最悪の来訪者」が...ドアベルカメラから…
  • 9
    【クイズ】1位は韓国...世界で2番目に「出生率が低い…
  • 10
    枕元に響く「不気味な咀嚼音...」飛び起きた女性が目…
  • 1
    その首輪に書かれていた「8文字」に、誰もが言葉を失った
  • 2
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅で簡単にできる3つのリハビリ法
  • 3
    頭はどこへ...? 子グマを襲った「あまりの不運」が話題に
  • 4
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 5
    幸せホルモン「セロトニン」があなたを変える──4つの…
  • 6
    囚人はなぜ筋肉質なのか?...「シックスパック」は夜…
  • 7
    「細身パンツ」はもう古い...メンズファッションは…
  • 8
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップ…
  • 9
    ロシアの労働人口減少問題は、「お手上げ状態」と人…
  • 10
    いきなり目の前にヒグマが現れたら、何をすべき? 経…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中