コラム

伊良部秀輝氏の死に感じる無念とは?

2011年08月01日(月)11時17分

 伊良部秀輝氏の自殺という事件には、何とも言えない無念を感じています。その中で、異文化コミュニケーションを円滑にするアドバイザーの不在であるとか、日本の野球に「一球ごとに自尊感情が高まる」文化がないというような思いを、私は別のところに書いています。

 また、報道によれば、最近の伊良部氏は精神的に相当に「落ち込んでいた」という報道もあります。この点に関して言えば、伊良部氏の悲劇をきっかけにして、周囲の人間が「うつ」の兆候、とりわけ自殺の兆候を発見し、対処できるような社会的な理解を深めることができればなどということを思ったりもしています。

 こうしたことに加えて、今日は私の「無念」について、別の角度からのお話をしたいと思います。

 それは「つながり」ということに関する日米の文化についてです。伊良部氏の訃報と前後して、メジャーリーグは7月31日のトレード期限を迎えました。この時点で、プレーオフ進出を断念した球団は、高給の実力派を放出して、次年度以降の「コストダウンと戦力の若返り」を狙い、一方でプレーオフへの望みを捨てていない球団は戦力補強をするのです。一種の季節の風物詩とは言え、色々な人間ドラマがそこには生まれます。

 そんな中、ボルチモア・オリオールズで活躍していた上原浩治投手は、セットアッパーとしての実力を評価されてテキサス・レンジャーズに移籍しました。その移籍の会見では、髭面の逞しい容貌の上原投手がボロボロ涙を流していましたが、私は少々そこに不自然なものを感じました。同僚との仲が良いのは素晴らしいことですし、別れを惜しむのも良い事だと思います。ですが、そこで泣くというのはアメリカでは異質だからです。

 同じタイミングで、先発ローテの中で見事な成績を挙げながら在籍しているドジャース球団がスキャンダラスな経営危機に見舞われている黒田博樹投手は「拒否権を使っての残留」を決断していますが、こちらにも不自然な感じがありました。ドジャースというチームは経営基盤が崩れ、今年は優勝戦線に残るのも難しい中、給与の支払もトラブルを起こすなど最悪の環境にあります。黒田投手の場合は、実力を評価する声が複数の球団からあったそうですが、「シーズン途中の移籍」を嫌った黒田投手は、残留を決断したということです。

 この2人の行動がどうして不自然なのかというと、それは「チームというネバネバした共同体」というものがあるという理解を彼等はしてしまっていると考えられるからです。オリオールズの同僚は上原投手との別れを惜しんだと思いますが、それは友人としての1対1の関係でそうしているのであって、ネバネバした共同体の一員として「上原投手がそこから離脱してゆく」ことに感慨を持っているのではないのです。にも関わらず、上原投手は一方的に「共同体からの離脱」に涙を流しているのだと思われます。不自然というのはそういうことです。

 黒田投手の判断も同じことです。オーナー夫婦のケンカに始まるドジャースの経営危機は正にスキャンダルであって、そこから逃れて新天地に行くのは自然な判断です。シーズン中にユニフォームが変わるのも、新しいチームメイトとファンが暖かく迎えてくれれば、移籍第一戦を過ぎれば自然に「仲間」になってしまうものです。そこを「シーズン途中では・・・」と躊躇する、また残留すれば何だか忠誠心があるようで、そこに納得感があるというのは、同じように「ネバネバした共同体」がアメリカにはあると思っている勘違いだと思うのです。

 伊良部氏の悲劇も同じです。訃報を聞いたヤンキースナインの反応は非常に暖かいものでした。まず現役の指揮官であるジョー・ジラルディ監督は伊良部氏のヤンキース時代には、キャッチャーとしてバッテリーを組んだ人間として、いやそれ以上に、故ジョージ・スタインブレナーという「クセ者のオーナー」に「自尊心をボロボロにされて切られた」共通経験を持っているだけに、非常に心のこもったコメントを残しています。

 そのジョージ・スタインブレナーに寵愛されたスーパースターのディレク・ジーター選手も、今は2代目のオーナー兄弟に毎年の契約更新で「衰え」を指摘されての「闘争」中であり、この一家との確執に苦しんだ伊良部氏への同情こそあれ、悪感情などあるはずはありません。そんなムードについては、ニューヨークの地元のメディアも同じようで、例えば30日付の大衆タブロイド紙『ニューヨーク・ポスト』はロス近郊にある伊良部邸前の献花台の大きな写真を掲げて、深い同情と追悼の記事を寄せています。

 恐らく、上原投手が涙を流し、黒田投手が残留にこだわったような誤解、つまりアメリカの球団にも「ネバネバした共同体」というものがあるという誤解に、伊良部氏も囚われていたのではないでしょうか? ヤンキースから放出された時点で、そのありもしない「ネバネバした共同体」から放り出されたとか、同僚との1対1の関係も終わりというような思い込みがあり、その中で屈辱感だけを自身の中に貯め込んでいたのではないでしょうか?

 そうではないのです。ヤンキースナインは、そしてニューヨークのファンの一部は、オーナーが何度も放言したような伊良部氏への悪感情は全く持っていなかったし、1対1の人間としての「つながり」の気持ちは消えていなかったのだと思います。「つながり」と言えば「ネバネバした共同体」への帰属と離脱のことだとばかり思い込み、1対1の「つながり」の可能性や暖かさを信じることができなかった、その辺りにも伊良部氏の悲劇の遠因があるように思えてなりません。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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