コラム

アニタ・ヒル事件、19年目の後日談とは?

2010年10月22日(金)12時02分

 アメリカでは、議会の公聴会や裁判などで注目の事件が扱われる際には、カメラを入れて一部始終を中継することが多く、そうした映像が歴史を作っていったという面があります。その意味で、1991年に起きた、最高裁のクラレンス・トーマス判事承認のための議会公聴会は歴史になっています。トーマス判事は、史上2人目の黒人最高裁判事候補として、そして史上初の「保守」の黒人大統領候補として上院の承認を得るために公聴会に臨んだのですが、何とかして承認を阻止したい民主党は、意外な戦術に出ました。

 トーマス判事の元部下であった黒人女性、アニタ・ヒル女史という証人を「引っ張り出し」て、トーマス判事が同女史に対して再三の性的嫌がらせ(セクシャル・ハラスメント)行為を働いていたことを立証しようとしたのです。セクハラをめぐる事実関係に関する男性と女性の「当事者」が議会公聴会で「直接対決」するということ、そしてアメリカでは三権の1つを担う重職である連邦最高裁判事への就任への承認という極めてシリアスな問題だということ、更にはトーマス判事が当時は珍しかった「黒人判事でしかも保守」ということで注目を浴びたのは言うまでもありません。

 まだまだ女性の権利が確立していない時代でもあり、議会ではヒル女史に対してかなり失礼な質問がされて議論を呼んだりしました。ですが、トーマス判事が見事なまでの全否定で一貫したために、上院としては判事の承認に「ノー」と言うのは「積極的な政治的動機」でもない限り難しいムードとなりました。結果的に保守から中道の議員は賛成に回って、トーマス判事は終身の身分の保障された最高裁判事に就任、現在もその職にあります。

 一方で「戦いに敗れた」側のヒル女史の方は、実名で果敢にセクハラ告発に立ち上がったという勇気が賞賛され、その後は大学の法学部の教授となって女性の人権についての研究者として現在に至っています。その間、この事件に関する本も何冊か出され、トーマス判事の自叙伝が話題になったり、ヒル女史のことを中傷気味に描いた本が出て、後にその内容が筆者によって実はデッチ上げだという告白があったりしています。またトーマス判事のヴァージニア夫人が、保守系政治団体の活動をかなり派手にやっており、連邦最高裁判事の妻としては不適切ではないかという批判が再三起きています。ですが、ヴァージニア夫人は全く意に介さないようで、今年からは堂々と「ティーパーティー」直系のロビイスト組織を立ち上げたりもしているのです。ちなみに「ティーパーティー」に派手に関わっているヴァージニア夫人は白人です。

 さて、その「アニタ・ヒル事件」ですが、20日の水曜日、各新聞の一面に妙な記事が載りました。ヴァージニア夫人が、アニタ・ヒル女史の大学の研究室に直接電話をかけ、たまたま不在だったので留守電メッセージを残したのだそうです。その内容は「ヒル女史に謝罪を要求する」ものでした。といっても、ワシントン社交界の「名物夫人」で夫は連邦最高裁判事だけあって、口汚い言葉で恫喝するようなものではなかったのです。むしろ、慇懃無礼とも言える「和解を促す」ようなトーンで終始し最後には "Have a good day." という挨拶がついていたというのが話題になりました。

 この "Have a good day." というのは実に良く使う挨拶で、直訳すると「どうぞ良い一日を」ということになり、日本語には存在しない表現ですが、このケースの場合は、強引に意訳すると「では失礼致しますわね、おホホホホ。」とでもいうニュアンスではないかと思います。さて、そんなわけで罵倒口調ではなかったのですが、ヒル女史は「これは自分への脅迫である」と断定し、すぐに大学の自治警察に通報してFBIにも連絡を取り、同時にニューヨーク・タイムズなどのメディアに留守電メッセージを公開したのです。その上で、自分は絶対に謝罪しないと宣言したのです。この「私は謝罪しない」という部分が一斉に報道されたのでした。

 では、どうしてこの時期にヴァージニア夫人は「謝罪要求」のメッセージを残すなどという行為に出たのでしょうか? 1つの推測は、中間選挙の投票まで残り僅かという微妙な時期に「和解を呼びかけても、リベラル黒人は怒りを抱いたまま」というイメージを広めることができれば、漠然と「黒人中間層」に民主党への投票をためらわせることができる、そんな政治的計算です。「ティーパーティー」的な発想としてはあり得ると思いますが、そこまでヴァージニア夫人に深謀遠慮があったかはヤブの中としても、保守優勢の政治的ムードに乗っての行動だという可能性はあるように思います。

 もう1つ、これも憶測ですが8月にエレナ・ケーガン判事が就任して以来、最高裁判事9名中の女性判事数が史上かつてなかった3名になっていること、その一方でトーマス判事は「審理の過程での発言が少ない」と批判されることが多く、その判事自身は「同僚の判事にウルサイのが多くて自分は黙っているんですよ」などと発言しているなどといったことから「セクハラ判事というイメージがまだ残っている」ことへの不満をかなり溜め込んでいるという見方も可能です。そんな夫の名誉回復ができればという思いから、ヴァージニア夫人は思い切った行動に出たのかもしれません。

 推測でモノを言うのはこのぐらいにするとして、実際にヒル女史とトーマス判事が「和解」することはあり得ないでしょう。というのは、やはりヒル女史の「勇気」があったからこそ、「セクハラは犯罪」という社会常識が、アメリカだけでなく世界の多くの国で確立したのは間違いないからです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:主人公を蘇生し結末改変も、ボリウッド「生

ワールド

焦点:日本が直面した複雑な力学、中東対応の実情 あ

ビジネス

中国PPI、3月は3年半ぶりプラス転換 中東紛争で

ビジネス

イタリア、今年と来年の成長率予想引き下げへ エネル
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプの大誤算
特集:トランプの大誤算
2026年4月14日号(4/ 7発売)

国民向け演説は「フェイク」の繰り返し。泥沼化するイラン攻撃の出口は見えない

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    古代のパピルスから新たに見つかった「2500年前の文章」...歴史を塗り替えかねない、その内容とは?
  • 2
    バリ島沖の要衝で「中国製水中ドローン」が回収される...潜水艦の重要ルートで一体何をしていた?
  • 3
    撃墜された米国機から財布やID回収か、イラン側が拡散──深まる謎
  • 4
    ポケモンで遊ぶと脳に「専用の領域」ができる? ポ…
  • 5
    韓国、生理用品無償支給を7月から開始 靴の中敷きで…
  • 6
    戸建てシフトで激変する住宅市場
  • 7
    高学力の男女で見ても、日本の男女の年収格差は世界…
  • 8
    目のやり場に困る...元アイスホッケー女性選手の「密…
  • 9
    「仕事ができる人」になる、ただ1つの条件...「頑張…
  • 10
    「地獄を見る」のは米国か──イラン地上侵攻なら革命…
  • 1
    米特殊部隊、米空軍兵士救出「大成功」に残る多くの疑問
  • 2
    古代のパピルスから新たに見つかった「2500年前の文章」...歴史を塗り替えかねない、その内容とは?
  • 3
    韓国、生理用品無償支給を7月から開始 靴の中敷きで代用した少女たちから10年、アジア初の普遍的支援へ
  • 4
    イラン戦争の現実...アメリカとイスラエル、見え始め…
  • 5
    「南東部と東部の前線で480平方キロ奪還」とウクライ…
  • 6
    「考えの浅い親」が子どもに言ってしまっている口ぐ…
  • 7
    「地獄を見る」のは米国か──イラン地上侵攻なら革命…
  • 8
    バリ島沖の要衝で「中国製水中ドローン」が回収され…
  • 9
    ポケモンで遊ぶと脳に「専用の領域」ができる? ポ…
  • 10
    撃墜された米国機から財布やID回収か、イラン側が拡…
  • 1
    温暖化で増えた? サンマやサケ減少の裏で激増する「安価で栄養価の高い魚」の正体
  • 2
    米特殊部隊、米空軍兵士救出「大成功」に残る多くの疑問
  • 3
    「根底にあるのは怒り」...日本の「3Dプリンター住宅」企業が救う、ウクライナの未来
  • 4
    「ノーと言えるスペイン」の背景に国防意識...次期ス…
  • 5
    キャサリン皇太子妃、ナイジェリア大統領夫妻出迎え…
  • 6
    数時間以内に死に至ることも...若者の間で集団感染が…
  • 7
    「日本より、自分の国(フランス)を心配すれば?」…
  • 8
    古代のパピルスから新たに見つかった「2500年前の文…
  • 9
    米軍も防ぎきれないイランのドローン攻撃──イラン製…
  • 10
    メーガン妃、娘リリベット王女との「お手伝い姿」公…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story