コラム

駐日アメリカ大使人事の第一報に接して

2009年05月25日(月)12時54分

 知日派であり、また「ソフトパワー」論の提唱者でもあるジョセフ・ナイ教授の駐日大使という「人事」が報道されてずいぶんになるのですが、なかなか正式発表がないと思っていましたら、この線は消えてしまったようです。代わりに浮上したのが、弁護士でオバマ大統領の有力な支持者である、ジョン・ルース氏という名前でした。

 第一印象として「無名の人物」であるとか「大口の選挙資金寄付への見返り」だというような報道が日本ではされていますし、それに加えて、何となく「日本が軽視されている」というニュアンスがついてしまっているようです。ですが、私はこの人事は(仮に実現したとして)オバマ政権が日本を軽視しているという意味ではないと思いますし、それ以前に「日本とは良好な関係で、大きな問題はない」という姿勢の表れと見るべきだと思うのです。

 例えば、歴代の大使の中で知日派の筆頭といえば、エドウィン・ライシャワー博士でしたが、この時代には日米安保条約の改定という大問題があり、アメリカとしては日米関係に危機感を持っていたのだと思います。どのようなアプローチをすれば、日本の世論が一斉反米にならずに済むのか、日本の反米意識はどこから先が危険範囲なのか、を踏まえたコミュニケーションを進めるには日本の文化や価値観を知り尽くした人物が必要だったのです。

 また、同じく知日派で実力外交官だったマイケル・アマコスト大使や、副大統領経験者で大統領候補としても知名度の高かったウォルター・モンデール大使といった「大物」が配された時代は、これもまた日米関係が困難を迎えた時期でもありました。日本の膨大な輸出超過に対して、アメリカの政財界も世論も神経を尖らせる中、両国の価値観の違いが浮き彫りになった時代、また冷戦終結という事態を受けて安全保障の枠組みが再構築される時代でもありました。アマコスト大使は、日本側からは今でも「ミスター外圧」というニックネームと共に記憶されていますが、同大使はそれだけ緊張感のあるコミュニケーションを取り持ったということの証明でもあるでしょう。

 こうした時代と比較しますと、今は日米に大きな懸案はないのです。経済は非常に危機的な状況ですが、それぞれが成長路線への回帰の努力を続ける一方で、中国経済の安定成長をヨコから支えるという方針は変えようがありません。米軍再編の問題も大きいですが、こちらもゲイツ国防長官+ヒラリー・クリントン国務長官としては、とにかく実務的に進めたいという姿勢でしょう。北朝鮮の政権世代交代も気になりますが、これも関係国の協調体制で臨むということにブレはないでしょう。安保改訂や貿易摩擦の時代とは全く違うのです。

 では、仮にルース氏を大使として迎えることになれば、今後の日米関係は「無風状態」が続くのかというと、そう簡単には行かないと思います。オバマ大統領自身が「やり手の弁護士」であったことから考えると、同じく弁護士のルース氏も相当なコミュニケーション能力を持った人物と見るべきでしょう。「同業者」として能力やスタイルの点で信頼の置けない人物を、大国日本の大使に据えるということはオバマ政権はしないと思うからです。

 ということは、今後の日米関係は「知日派の解説やエクスキューズ」といった「緩衝材」が間に入ったコミュニケーションではなく、もっとストレートでダイレクトなものとなる、そう考えねばなりません。金融危機が一段落した「次」には、オバマ政権は環境や核廃絶といった問題で、国際社会でのリーダーシップを取ろうと積極策に出てくることが予想されます。その際には、日本にも実務的な要求が次から次へと突きつけられるでしょう。その際には「日本人の発想法に特別に配慮した」姿勢ではなく、他の主要国と同じような実務的なコミュニケーションになるのではないかと思われます。

 今回の大使人事のニュースに関しては、そんなわけで「日米が正常であることの証拠」であると同時に、「今後は特別なコミュニケーションスタイルは取らない」という宣言と理解するのが、とりあえず良いのではないかと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米国株式市場・午前=急騰、S&P500が3月以来の

ワールド

トランプ氏、カタールからの航空機受領を正当化 政権

ビジネス

英中銀政策委員、物価高警戒 「高い上昇圧力」と指摘

ワールド

印首相「パキスタンはテロインフラ排除を」、国際社会
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:2029年 火星の旅
特集:2029年 火星の旅
2025年5月20日号(5/13発売)

トランプが「2029年の火星に到着」を宣言。アメリカが「赤い惑星」に自給自足型の都市を築く日

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    カヤック中の女性がワニに襲われ死亡...現場動画に映った「殺気」
  • 3
    シャーロット王女の「親指グッ」が話題に...弟ルイ王子との微笑ましい瞬間が拡散
  • 4
    母「iPhone買ったの!」→娘が見た「違和感の正体」に…
  • 5
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 6
    「出直し」韓国大統領選で、与党の候補者選びが大分…
  • 7
    ゴルフ場の近隣住民に「パーキンソン病」多発...原因…
  • 8
    「がっかり」「私なら別れる」...マラソン大会で恋人…
  • 9
    ロシア艦船用レーダーシステム「ザスロン」に、ウク…
  • 10
    5月の満月が「フラワームーン」と呼ばれる理由とは?
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    健康は「何を食べないか」次第...寿命を延ばす「5つの指針」とは?
  • 3
    脂肪は自宅で燃やせる...理学療法士が勧める「3つの運動」とは?
  • 4
    5月の満月が「フラワームーン」と呼ばれる理由とは?
  • 5
    部下に助言した時、返事が「分かりました」なら失敗…
  • 6
    シャーロット王女の「親指グッ」が話題に...弟ルイ王…
  • 7
    ロシア機「Su-30」が一瞬で塵に...海上ドローンで戦…
  • 8
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 9
    ついに発見! シルクロードを結んだ「天空の都市」..…
  • 10
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得…
  • 1
    心臓専門医が「絶対に食べない」と断言する「10の食品」とは?...理想は「1825年の食事」
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    脂肪は自宅で燃やせる...理学療法士が勧める「3つの…
  • 5
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 6
    健康は「何を食べないか」次第...寿命を延ばす「5つ…
  • 7
    「2025年7月5日に隕石落下で大災害」は本当にあり得…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    【クイズ】世界で2番目に「軍事費」が高い国は?...1…
  • 10
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story