コラム

戦争のトラウマがない新しいセルビア映画を作る『鉄道運転士の花束』

2019年08月16日(金)13時33分

『Mali svet』では、建物の屋上から飛び降りて死のうとしている医者の運命が、目的地への道の選択を誤る警官のコンビ、高価な携帯を持ち逃げするなどして捕まった容疑者とケーキ屋を営む彼の妻らの運命と複雑に絡み合うことによって、変化していく。結局、医者の人生はハッピーエンドを迎えるが、その過程には滑稽で不条理な悲劇がちりばめられている。

本作も自殺しようとするシーマの運命が好転していくという点では、この長編デビュー作の話術が引き継がれているが、新作の魅力はブラックコメディだけではない。

運転士として人を殺すということ

筆者が本作を観ながら思い出していたのは、以前コラムで取り上げたトーマス・ステューバー監督のドイツ映画『希望の灯り』のことだ。この2作品には明らかな共通点がある。

『希望の灯り』では、道を踏み外した孤児のような若者がスーパーマーケットで働き始める。その職場は平凡で小さな世界に見えるが、東ドイツ時代の記憶を共有する人々がゆるやかな連帯関係を保つ聖域になっている。若者はそんな特別な空間で父親的な存在に出会い、彼からフォークリフトの操作技術を引き継ぐことが、自己と世界の新たな関係を構築するイニシエーション(通過儀礼)となる。

本作では、孤児のシーマがイリヤに助けられ、列車の車両を再利用した鉄道員たちの宿舎で暮らすようになる。本作の場合は、先述した監督の指針があるため、背景にセルビアの具体的な歴史が描かれているわけではないが、やはり宿舎という平凡で小さな世界が聖域に見えてくる。

鉄道員たちは、就業中に自分の家族を殺してしまったり、家族を他の運転士に殺された過去をそれぞれに背負いながらも、連帯関係を保っている。その宿舎ではたくさんの花々が栽培されているが、それは犠牲者たちに手向けるためのものであることがわかる。また、イリヤと臨床心理士のやりとりを描いたプロローグも、外部の人間には宿舎に暮らす人々が共有する痛みを理解できないことを示唆している。

シーマはそんな特別な空間で成長し、養父イリヤの運転士という仕事を引き継ごうとする。しかし本作では、シーマが運転士になることがイニシエーションになるわけではない。運転士として人を殺したときに初めて、この共同体に受け入れられ、帰属することになるのだ。だから、運転士にはなったものの、いつどこでその瞬間が訪れるのか不安で仕方がないシーマは、ノイローゼになっていく。そんなシーマの運命は、イリヤの運命とも深く結びついている。

ブラックコメディと神話的な物語

そこでもう一度、『希望の灯り』を振り返ってみると、この父子の関係がより興味深く思えてくるはずだ。『希望の灯り』の父親的存在は、妻と暮らしているように装っているが、終盤の悲劇的な展開によって彼がひとりだったことがわかる。それは彼が過去に深くとらわれていたことを物語る。

本作のイリヤも、シーマが親の手を離れるに従って、次第に遠い昔に亡くした最愛の女性の幻影にとらわれていく。そしてついには、自分が犠牲になることで、シーマを一人前にしようと考えるようになる。

本作の最大の見所は、運転士シーマがどのように人を殺し、イリヤが幻影を拭い去るかというところにある。ラドヴィッチ監督は、そんなクライマックスに至るまで滑稽で不条理な悲劇を繰り出し、ブラックコメディと神話的な物語を見事に両立させている。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

鉱物資源協定、ウクライナは米支援に国富削るとメドベ

ワールド

米、中国に関税交渉を打診 国営メディア報道

ワールド

英4月製造業PMI改定値は45.4、米関税懸念で輸

ビジネス

日銀、政策金利を現状維持:識者はこうみる
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 2
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 5
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 6
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 7
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 8
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 9
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 10
    悲しみは時間薬だし、幸せは自分次第だから切り替え…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 7
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 10
    ポンペイ遺跡で見つかった「浴場」には、テルマエ・…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 9
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 10
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story