コラム

旧東ドイツ人は、その後の時代をどう生きてきたのか 『希望の灯り』

2019年04月04日(木)16時30分

東ドイツ時代について抱く郷愁"オスタルギー"

ここでは、旧東ドイツ人が東ドイツ時代について抱く郷愁"オスタルギー"がどのようなものであるのかを確認しておくべきだろう。フランク・リースナーの『私は東ドイツに生まれた』では、オスタルギーの具体例として「東ドイツ時代の企業や作業集団(コレクティーフ)内での仲間意識」が挙げられ、以下のように説明されている。


「作業集団とは、一般的に同じ場所で働いている人間の集団を指す。(中略)作業集団は、労働時間外でも多くの余暇活動を行った。メンバーをグループとしてまとめ上げ、個人主義が発生しないようにするためである。会社の中でも外でも、グループはグループなのだ。集団は個人よりも管理しやすい。SED(ドイツ社会主義統一党)は党員を通じて作業集団に影響力を発揮することができた。自由時間でも同僚に会っていればプライベートでも助けあうようになり、それだけ秘密がなくなるのだ」

ooba0404b.jpg

『私は東ドイツに生まれた』フランク・リースナー 生田幸子訳(東洋書店、2012年)

本作のドラマは、そんな作業集団と結びつけてみるとふたつのポイントが見えてくる。ひとつは世代の違いだ。ブルーノや彼と同世代の同僚たちには、よき思い出として作業集団の記憶があり、それがゆるやかな連帯関係としていまも残っている。これに対して、若いクリスティアンには、東ドイツ時代に郷愁を抱くほどの記憶がない。彼は西ドイツ化していく社会に順応することもできなかった。だからタトゥーが物語るように道を踏み外してしまった。そんな彼は、スーパーマーケットではじめて自分の居場所を見出す。

もうひとつは、よき思い出と現実のギャップだ。作業集団に関する引用には、「会社の中でも外でも、グループはグループ」という記述があったが、もうそんな親密な関係を取り戻すことはできない。同僚たちはスーパーマーケットから一歩外に出れば、それぞれに孤独や不安に苛まれながら、個人として生きていくためにもがいている。クリスティアンはやがて、郷愁に支えられた連帯が儚く、脆いものであることを知ることになる。

一見どこにでもある世界に深く心を揺さぶられる理由

本作では、そんなふたつのポイントが絡み合うことによって、原作の短編とは異なる世界が切り拓かれていく。その導入部で新入りのクリスティアンを迎えたルディは、店内を案内する前に「いざ神聖なる空間へ」と語る。それは皮肉なユーモアのように聞こえるが、物語が展開していくに従ってそうは思えなくなる。ステューバー監督が、スーパーマーケットを異空間に変えていくからだ。

本作の冒頭では、閉店後の照明を落とした店内を、フォークリフトが「美しき青きドナウ」に合わせて、踊るように通路を行き交う。この時から、スーパーマーケットは日常であると同時に特別な空間にもなる。

そこに道を踏み外した孤児のような若者クリスティアンがやって来る。原作にはタトゥーのエピソードはないが、映画では出勤した彼が、タトゥーが隠れるように袖や襟を整える場面が何度も挿入される。それは、彼が生まれ変わろうとしていることを示唆している。

そんなクリスティアンは特別な空間で、ブルーノという父親的な存在に出会う。ふたりを結びつけるのはフォークリフトだ。クリスティアンは最初、フォークリフトどころか、手動のハンドリフトですら思うように扱えず、振り回されている。

しかし、閉店後の店内でブルーノに見守られながら、操縦技術を身につけていく。そして、郷愁にとらわれたブルーノからフォークリフトを引き継ぐことが、重要なイニシエーション(通過儀礼)となる。どこにでもある小さな世界を描いているように見える本作に、深く心を揺さぶられるのは、そこに歴史を背景とした神話的な物語が埋め込まれているからだろう。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ガザ停戦署名の発表なし、イスラエル承認予定 12か

ビジネス

米デルタ航空、第3四半期は利益が予想上回る 見通し

ビジネス

NY連銀総裁、年内追加利下げを支持 労働市場に減速

ワールド

ロシアのガソリン供給、20%減少した可能性=ゼレン
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:中国EVと未来戦争
特集:中国EVと未来戦争
2025年10月14日号(10/ 7発売)

バッテリーやセンサーなど電気自動車の技術で今や世界をリードする中国が、戦争でもアメリカに勝つ日

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になりやすい人」が持ち歩く5つのアイテム
  • 2
    ウクライナの英雄、ロシアの難敵──アゾフ旅団はなぜ「過激派」から「精鋭」へと変わったのか?
  • 3
    ロシア「影の船団」が動く──拿捕されたタンカーが示す新たなグレーゾーン戦略
  • 4
    ヒゲワシの巣で「貴重なお宝」を次々発見...700年前…
  • 5
    トイレ練習中の2歳の娘が「被疑者」に...検察官の女…
  • 6
    インフレで4割が「貯蓄ゼロ」、ゴールドマン・サック…
  • 7
    【クイズ】イタリアではない?...世界で最も「ニンニ…
  • 8
    「それって、死体?...」新婚旅行中の男性のビデオに…
  • 9
    あなたは何型に当てはまる?「5つの睡眠タイプ」で記…
  • 10
    祖母の遺産は「2000体のアレ」だった...強迫的なコレ…
  • 1
    「大谷翔平の唯一の欠点は...」ドジャース・ロバーツ監督が明かすプレーオフ戦略、監督の意外な「日本的な一面」とは?
  • 2
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレクトとは何か? 多い地域はどこか?
  • 3
    バフェット指数が異常値──アメリカ株に「数世代で最悪」の下落リスク
  • 4
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になり…
  • 5
    赤ちゃんの「耳」に不思議な特徴...写真をSNS投稿す…
  • 6
    iPhone 17は「すぐ傷つく」...世界中で相次ぐ苦情、A…
  • 7
    祖母の遺産は「2000体のアレ」だった...強迫的なコレ…
  • 8
    ロシア「影の船団」が動く──拿捕されたタンカーが示…
  • 9
    更年期を快適に──筋トレで得られる心と体の4大効果
  • 10
    「日本の高齢化率は世界2位」→ダントツの1位は超意外…
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 4
    「大谷翔平の唯一の欠点は...」ドジャース・ロバーツ…
  • 5
    カミラ王妃のキャサリン妃への「いら立ち」が話題に.…
  • 6
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 7
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 8
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 9
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
  • 10
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story