コラム

雇用が回復しても賃金が上がらない理由

2017年08月17日(木)15時30分

実質賃金が上がりにくい景気回復の初期段階

日本の名目賃金は、リーマン・ショック後の2009年には急落したが、その後は少なくとも大きく下がることはなくなった。他方で、実質賃金の方は2014年に急落している。これはしかし、その4月に実施された消費税増税が消費者物価の上昇に直結したからであり、必ずしも経済基調の変化によるものではない。

既述のように、実質賃金は本来、労働生産性の上昇とともに上がるべきものである。しかしながら、景気回復の初期においては、なかなかそれが現実化しない。それは、その段階ではまだ不況の中で拡大した労働の余剰が十分に解消されていないので、名目賃金が下げ止まりはしても、それが上昇に転じるまでには至らないからである。それに対して、物価の方は、総需要の拡大により徐々に上昇し始めることが多い。その場合、実質賃金は上がるのではなくむしろ下がることになる。

しかしながら、この段階で生じる実質賃金低下は、不況の中で生じるそれとはまったく意味が異なる。不況下の実質賃金低下は、1997年以降の日本のように「物価よりも名目賃金の方が大きく下がる」ことによるものである。それに対して、景気回復段階のそれは「名目賃金が物価のようには上がらない」ことによるものである。前者は一般に失業の拡大を伴うのに対して、後者は失業の縮小を伴うのであるから、その性格は正反対である。

アベノミクスの批判者たちはしばしば、それが実質賃金の低下しかもたらさなかったと批判する。確かに、アベノミクスが発動された2013年以降の実質賃金は、2014年の消費税増税の影響はあるにしても、ごく近年までは明らかに低下し続けてきた。

しかし、上の考察から明らかなように、仮に実質賃金の低下が生じていたにしても、それが失業の縮小と雇用の拡大を伴っている限り、それを否定的に捉える必要はまったくない。そして実際、アベノミクスの発動以降、日本の雇用状況は顕著に改善し続けてきた。

そもそも、ケインズが『一般理論』で明らかにした最も重要な論点の一つは、「労働需要の拡大のためには、名目賃金の低下は必要ないが、実質賃金の低下は必要だ」ということであった。実質賃金は、労働市場が完全雇用に近づいて始めて上がる。つまり、ケインズ的な考え方によれば、少なくとも雇用の改善が必要な不完全雇用の間は、実質賃金は必ずしも大きく上がるべきではないのである。

労働市場の構造変化と構造的失業率の低下

通常、労働市場が完全雇用に近づき、労働の余剰が解消された時に起きるのは、労働への超過需要拡大による名目賃金の上昇である。その段階では、物価も上昇するが、それ以上に名目賃金が伸び、実質賃金がようやく上がり始める。実質賃金はそこに至ってはじめて、本来そうあるべきように労働生産性の上昇と歩調を合わせて伸びるようになる。

日本経済は現在、おそらくそのような完全雇用点に着実に近づきつつある。というのは、地域の景況にもよるが、少なくとも非正規の労働市場では、各地で名目賃金の明確な上昇が生じ始めているからである。

とはいえ、正規も含めた労働市場全般においては、名目賃金の上昇は未だ十分ではない。その伸びの鈍さは、失業率や有効求人倍率といった数字の表面的な改善具合からすると、不可解なもののようにさえ写る。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米PCE価格指数、インフレ率の緩やかな上昇示す 個

ワールド

「トランプ氏と喜んで討議」、バイデン氏が討論会に意

ワールド

国際刑事裁の決定、イスラエルの行動に影響せず=ネタ

ワールド

ロシア中銀、金利16%に据え置き インフレ率は年内
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された米女優、「過激衣装」写真での切り返しに称賛集まる

  • 3

    中国の最新鋭ステルス爆撃機H20は「恐れるに足らず」──米国防総省

  • 4

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 5

    アカデミー賞監督の「英語スピーチ格差」を考える

  • 6

    大谷選手は被害者だけど「失格」...日本人の弱点は「…

  • 7

    今だからこそ観るべき? インバウンドで増えるK-POP…

  • 8

    19世紀イタリア、全世界を巻き込んだ論争『エドガル…

  • 9

    「性的」批判を一蹴 ローリング・ストーンズMVで妖…

  • 10

    「鳥山明ワールド」は永遠に...世界を魅了した漫画家…

  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 3

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた「身体改造」の実態...出土した「遺骨」で初の発見

  • 4

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

  • 5

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 8

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 9

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 10

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の瞬間映像をウクライナ軍が公開...ドネツク州で激戦続く

  • 3

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈する動画...「吹き飛ばされた」と遺族(ロシア報道)

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士…

  • 6

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 10

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story