コラム

変わる台湾、変わらない台湾

2012年01月11日(水)16時04分

「こいつ巻き舌だよ、ハハハ!」

 大学のラグビー部の遠征試合で初めて台湾を訪れた1990年、中国語学習者だった筆者は、試合相手の台湾人から交流会でこんな風にからかわれた。中国語学習者は一般的にまず大陸で話される標準的中国語「普通話(プートンホア)」を教えられるが、普通話は巻き舌音を特徴とする北京方言の発音を基にしている。このため、外国人学習者は(かなり慣れない)巻き舌音を最初から仕込まれるケースが多いのだが、これが大まかにいって中国の南半分を占める「巻かない」人々の癪に障る。台湾も、少なくとも今から20年前は確実に「巻かない」地域だった。

 06年、取材で16年ぶりに訪れた台湾で筆者は台湾人たちの変化に驚かされた。あれだけ巻き舌を毛嫌いしていた彼らの口から出る中国語が、微妙に巻いているように聞こえたからだ。もちろん生粋の北京人のように「ギュンギュン」に巻いているわけではないが、テレビのアナウンサーの発音も中国大陸と大差ない。台北に長期間在住する日本人の知人からは「外国人と喋っているときだけだ」と指摘されたが、それでも笑いものにされた16年前と比べれば隔世の感がした。

 その台湾で直接選挙では5回目となる総統選の投開票が14日に行われるが、既に伝えられているとおり選挙戦は異様なほど白熱している。現職馬英九は民進党の女性候補、蔡英文に追いまくられ、投票直前の国民党寄りメディアの世論調査でもそのリードは2・9ポイント。最終的な得票率の差がわずか0・2ポイントで、陳水扁総統の銃撃事件まで起きた04年総統選の雰囲気に近づいている。

 今回の選挙について、「主要な争点は経済で、大陸との関係に大半の選挙民は関心がない」という台湾現地の指摘がある。確かに経済が争点なのは間違いないが、だからといって中台関係が選挙に影響しない、と考えるのは正しくない。なぜなら今の台湾にとって、経済問題は大陸問題にほかならない。有権者は表向きは中台関係を語ることにうんざりしているが、「馬か蔡か」を決める最後の決断の瞬間に、大陸との関係は重要な判断材料になるはずだ。これまでさんざん金銭的な疑惑を指摘されている国民党だけでなく、民進党の蔡側にもカネがらみのスキャンダルが浮上して選挙戦は泥仕合の様相を呈しているが、選挙の伏流はあくまで中国との関係のはずだ。

 そもそも経済が最重要な争点なのなら、馬総統はそこそこ楽な選挙戦を戦えたはずだった。08年のリーマンショック後こそGDP成長率は伸び悩んだが、10年は10・88%、昨年上半期も5%近い経済成長を実現している。この経済成長を牽引しているのが、増え続ける大陸との経済交流だ。昨年夏には中国人観光客の台湾への個人旅行も解禁された。有力企業の鴻海精密工業が「富士康(フォックスコン)」のブランド名で生産拠点を中国に設け、中国人労働者を安く使いながらiPadやiPhoneを作って稼ぎ続けることができるのも、大陸との関係が安定していてこそ、だ。

 ただその一方で、今回馬総統が予想外に苦戦を強いられている1つの理由は中国との経済協調路線そのものにある。交流のうまみを享受しているのは一部の金持ち投資家だけで、特別な技術をもたない庶民はむしろ中国の労働者に仕事を奪われているという意識が広がっているのだ。香港生まれでエリート街道を歩んできた馬個人に対する本省人(台湾生まれの台湾人)の反感もあるかもしれない。だが蔡の掲げる「公正、正義」というスローガンは、単に馬や国民党だけでなく、その背後にいる中国や中国的なものに台湾人が突きつけた「刃」に思えてならない。もし今回再び政権交代が実現すれば、戒厳令で長く台湾人を抑え続けてきた国民党政権から初めて政権交代を実現した00年の総統選とは大きく意味合いが異なる。それは中国、そして中国的なものへの明らかな「ノー」という意志表示になるはずだ。

 世界第2位の経済大国だから、中国にカネはある。だが、この国には残念ながら他国に誇るべき理念は見当たらない。これまでは「途上国」を自称していたから許されてきたが、もはやカネの力だけでは他国を納得させることも、尊敬を受けることもできない――。かつて「アジアの四小龍」と呼ばれた台湾は、1人当たりGDPでトップのシンガポールに2倍以上の差を付けられ、今やその末席で小さくなっている。もし、それでも台湾人たちがあえて馬でなく蔡を選ぶのなら、そこにはそんなニュアンスが含まれているはずだ。

 台湾は変わらないことを示唆するデータもある。昨年夏には9000ポイントあった株価は年末にいったん7000ポイントを割り込んだが、選挙の投開票が近づくにつれ持ち直しつつある。当たるも八卦、ではないが、株価を1つの選挙戦を占う指標と見れば,市場は「馬再選」へ振れ直しつつあるとも読める。台湾人にアンケートをとれば、今も過半数が「独立」でも「統一」でもなく「現状維持」を望む。「中国なき成長戦略」は残念ながら今のところ台湾には見当たらない。

 機会があって、14日の総統選投開票を現地取材することになった。台湾人と台湾の変化の瞬間に立ち会うことになるのか。到着した空港で乗ったタクシーの運転手の発音を聞けばその答えは見える......かもしれない。

――編集部・長岡義博(@nagaoka1969)

プロフィール

ニューズウィーク日本版編集部

ニューズウィーク日本版は1986年に創刊。世界情勢からビジネス、カルチャーまで、日本メディアにはないワールドワイドな視点でニュースを読み解きます。編集部ブログでは編集部員の声をお届けします。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:トランプ氏なら強制送還急拡大か、AI技術

ビジネス

アングル:ノンアル市場で「金メダル」、コロナビール

ビジネス

為替に関する既存のコミットメントを再確認=G20で

ビジネス

米国株式市場=上昇、大型ハイテク株に買い戻し 利下
MAGAZINE
特集:トランプ暗殺未遂
特集:トランプ暗殺未遂
2024年7月30日号(7/23発売)

前アメリカ大統領をかすめた銃弾が11月の大統領選挙と次の世界秩序に与えた衝撃

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「習慣化の鬼」の朝日新聞記者が独学を続けられる理由【勉強法】
  • 2
    BTS・BLACKPINK不在でK-POPは冬の時代へ? アルバム販売が失速、株価半落の大手事務所も
  • 3
    【夏休み】お金を使わないのに、時間をつぶせる! 子どもの楽しい遊びアイデア5選
  • 4
    キャサリン妃の「目が泳ぐ」...ジル・バイデン大統領…
  • 5
    地球上の点で発生したCO2が、束になり成長して気象に…
  • 6
    カマラ・ハリスがトランプにとって手ごわい敵である5…
  • 7
    トランプ再選で円高は進むか?
  • 8
    拡散中のハリス副大統領「ぎこちないスピーチ映像」…
  • 9
    中国の「オーバーツーリズム」は桁違い...「万里の長…
  • 10
    「轟く爆音」と立ち上る黒煙...ロシア大規模製油所に…
  • 1
    正式指名されたトランプでも...カメラが捉えた妻メラニアにキス「避けられる」瞬間 直前には手を取り合う姿も
  • 2
    すぐ消えると思ってた...「遊び」で子供にタトゥーを入れてしまった母親の後悔 「息子は毎晩お風呂で...」
  • 3
    月に置き去りにされた数千匹の最強生物「クマムシ」、今も生きている可能性
  • 4
    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…
  • 5
    「習慣化の鬼」の朝日新聞記者が独学を続けられる理…
  • 6
    【夏休み】お金を使わないのに、時間をつぶせる! 子…
  • 7
    ブータン国王一家のモンゴル休暇が「私服姿で珍しい…
  • 8
    「失った戦車は3000台超」ロシアの戦車枯渇、旧ソ連…
  • 9
    「宇宙で最もひどい場所」はここ
  • 10
    ウクライナ南部ヘルソン、「ロシア軍陣地」を襲った…
  • 1
    中国を捨てる富裕層が世界一で過去最多、3位はインド、意外な2位は?
  • 2
    ウクライナ南部ヘルソン、「ロシア軍陣地」を襲った猛烈な「森林火災」の炎...逃げ惑う兵士たちの映像
  • 3
    ウクライナ水上ドローン、ロシア国内の「黒海艦隊」基地に突撃...猛烈な「迎撃」受ける緊迫「海戦」映像
  • 4
    ブータン国王一家のモンゴル休暇が「私服姿で珍しい…
  • 5
    正式指名されたトランプでも...カメラが捉えた妻メラ…
  • 6
    韓国が「佐渡の金山」の世界遺産登録に騒がない訳
  • 7
    すぐ消えると思ってた...「遊び」で子供にタトゥーを…
  • 8
    月に置き去りにされた数千匹の最強生物「クマムシ」…
  • 9
    メーガン妃が「王妃」として描かれる...波紋を呼ぶ「…
  • 10
    「どちらが王妃?」...カミラ王妃の妹が「そっくり過…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story