コラム

医学部定員増に反対してストを続ける、韓国医師の「ミゼラブル」な前途

2024年04月02日(火)07時00分
韓国

3月3日にソウル市内で行われた医師の2万人デモ CHUNG SUNG-JUN/GETTY IMAGES

<医学部定員増に反対する韓国医師のストが続いている。特権を失いかねないエリートの彼らが反対するのは合理的なのだが、執拗な闘争には歴史的な背景がある>

「列に入れよ われらの味方に砦の向こうに世界がある 戦え それが自由への道」

響き渡るのは、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の看板曲「民衆の歌」。声を張り上げるのは貧しい労働者、ではない。

3月3日、韓国の首都ソウル市永登浦区の汝矣島(ヨイド)公園。大韓医師協会、日本で言えば日本医師会に当たる組織の集会に、尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権の「医学部定員2000人増員」に反対する2万人もの医師が集まった。その後も医師たちによる大規模ストライキが続き、医療現場では混乱が起こっている。

では、韓国の医師たちは『レ・ミゼラブル』の民衆のような貧しい生活を送っているのか。OECDの統計によると、2021年の韓国の医師平均年間報酬額は19万2000ドル(購買力平価〔PPP〕ベース)。1ドル=150円で換算すれば2880万円を超えるこの数字は、何とドイツやオランダを抑えて第1位になっている。韓国の医師の給与が少ないとは、決して言えない。

医学部の定員増により医師の報酬に影響が出るのは事実だから、彼らが反対するのは合理的だ。しかし、それだけで医師たちがその状況を『レ・ミゼラブル』になぞらえるのは理解できないし、国民の健康を犠牲にして、大規模ストライキをする理由も分からない。富裕な彼らが「ミゼラブル」であると訴えても、滑稽にしか見えない。

■「医療民主化」のための闘争

なぜ医師たちはこのような「闘争」を展開するのか。彼らがこの闘いを「医療民主化」の一環だと考えているからだ。

彼らの理解は次のようなものだ。日本統治下の朝鮮半島で医療は総督府により厳しく管理された。影響は独立後も残り、韓国の医療は国家に管理される「官治医療」になった。だから、医療を本来の姿に取り戻すためには、医療を医師の手に取り戻す「医療民主化」が必要だ、というのである。

同様のロジックは韓国の民主化運動によく見られ、珍しくはない。重要なのは、医師たちがこのロジックの下、医薬分業や医学部定員増、さらには遠隔医療の導入など、自らの経済的利益に影響を与える政策に反対し、一定の成功を収めてきたことだ。

つまり、彼らはこれらをいずれも国家による医療現場への不当な介入であり、それを排除することが「民主化」だ、というロジックを用いて正当化してきた。医師たちは政権が左派であろうと右派であろうと、等しくこの論理で政権に対抗した。

そして彼らは言う。医師を特権層としてスケープゴートにする政権のやり方は典型的なポピュリズムであり、かつてのフランスのボナパルティズムに通じるものである。だから『レ・ミゼラブル』でエリートたちによる秘密結社「ABCの友」が民衆を革命へと導いたように、自らも民衆を革命へと導くのだ、と。こうして彼らによる『レ・ミゼラブル』が完結する。

プロフィール

木村幹

1966年大阪府生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科教授。また、NPO法人汎太平洋フォーラム理事長。専門は比較政治学、朝鮮半島地域研究。最新刊に『韓国愛憎-激変する隣国と私の30年』。他に『歴史認識はどう語られてきたか』、『平成時代の日韓関係』(共著)、『日韓歴史認識問題とは何か』(読売・吉野作造賞)、『韓国における「権威主義的」体制の成立』(サントリー学芸賞)、『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識』(アジア・太平洋賞)、『高宗・閔妃』など。


今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

EXCLUSIVE-トルコ、予算削減額は予想上回る

ビジネス

米金利維持が物価目標達成につながる=クリーブランド

ビジネス

米4月輸入物価、前月比0.9%上昇 約2年ぶり大幅

ビジネス

米鉱工業生産、4月製造業は0.3%低下 市場予想下
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 2

    羽田空港衝突事故で「日航の奇跡」を可能にした、奇跡とは程遠い偉業

  • 3

    アメリカはどうでもよい...弾薬の供与停止も「進撃のイスラエル」は止まらない

  • 4

    老化した脳、わずか半年の有酸素運動で若返る=「脳…

  • 5

    半分しか当たらない北朝鮮ミサイル、ロシアに供与と…

  • 6

    総額100万円ほどの負担増...国民年金の納付「5年延長…

  • 7

    2023年の北半球、過去2000年で最も暑い夏──温暖化が…

  • 8

    共同親権法制を実施するうえでの2つの留意点

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    仰向けで微動だにせず...食事にありつきたい「演技派…

  • 1

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 7

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 8

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    「終わりよければ全てよし」...日本の「締めくくりの…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story