コラム

「ベートーベン鉛中毒説」がより精密に根拠付けられる 「梅毒にかかっていた」疑惑についても進展あり?

2024年06月13日(木)22時20分

サンプルが偽物だったことからすっかり分が悪くなった鉛中毒説ですが、今回のハーバード大の研究では、ケンブリッジ大チームが遺伝子解析でベートーベンのものと結論付けた2種の毛髪をサンプルとして用いました。

1つは「ハルムとセイヤーの房(0.0284グラム)」と呼ばれるもので、ベートーベン自身が1826年4月にピアニストのアントン・ハルムに手渡し、後に伝記作家のアレクサンダー・ウィーロック・セイヤーに渡ったものです。もう1つは「ベルマンの房(0.0413グラム)」で、1820年後半から27年3月の間に切られたと推定されます。

研究者たちは、2房の髪の外部汚染を取り除くため洗剤で洗い、乾燥させてから2種の誘導結合プラズマ質量分析を行いました。その結果、ハルムとセイヤーの房では1グラムあたり380マイクログラムと369マイクログラム、ベルマンの房では1グラムあたり258 マイクログラムと254マイクログラムの鉛が検出されました。これは、通常範囲の上限(1グラムあたり4マイクログラム以下)のそれぞれ約95倍と約64倍に当たりました。

高濃度の重金属が毛髪に蓄積された理由

また、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)が提案する毛髪鉛濃度から血中鉛濃度への変換式を使用すると、ベートーベンの血中鉛濃度は1デシリットル当たり69~71マイクログラムと推定されました。研究チームによると、このレベルの血中鉛濃度は一般的に胃腸障害や腎疾患、聴力低下と関連しますが、死亡の唯一の原因となる程度ではないと言います。

さらに、ベートーベンには梅毒にかかっていた疑惑がありますが、これまでは根拠が見つかりませんでした。ところが今回の研究では、2組の毛髪の両方からヒ素と水銀も検出され、通常範囲 (1グラム当たり1マイクログラム以下) と比べて、ヒ素は約13倍、水銀は約4倍と高濃度でした。水銀は梅毒の治療に使われるため、今後の研究次第では証拠の1つになるかもしれません。

毛髪になぜ高濃度の重金属が蓄積されたかについて、リファイ博士は①ワインの味付けに用いられていた、②当時、ドナウ川には産業廃液が流れ込んでいたが、そこで捕れた魚が消費されていた、③医療行為(晩年のベートーベンは金属機器を使って腹水を頻繁に抜いてもらっていた)などが考えられると語っています。

難聴や人格変化に苦しみながら「遺書」を記し、死後に原因を解明してほしいと切に願いつつ、その後25年間も美しい音楽を作り続けたベートーベン。200年後の科学技術で検証され、後世の人々が真相を理解すれば、きっと魂が慰められるでしょう。

ニューズウィーク日本版 豪ワーホリ残酷物語
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

2025年9月9日号(9月2日発売)は「豪ワーホリ残酷物語」特集。円安の日本から「出稼ぎ」に行く時代――オーストラリアで搾取される若者のリアル

※バックナンバーが読み放題となる定期購読はこちら


プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

アンソロピック企業価値1830億ドル、直近の資金調

ビジネス

米財務長官、次期FRB議長候補の面接を5日開始=W

ワールド

米政府、TSMCの中国向け製造装置輸出巡る特別措置

ビジネス

米国株式市場=下落、ダウ249ドル安 トランプ関税
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:豪ワーホリ残酷物語
特集:豪ワーホリ残酷物語
2025年9月 9日号(9/ 2発売)

円安の日本から「出稼ぎ」に行く時代──オーストラリアで搾取される若者たちの実態は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニングをする女性、異変を感じ、背後に「見えたモノ」にSNS震撼
  • 2
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体」をつくる4つの食事ポイント
  • 3
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が下がった「意外な理由」
  • 4
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シ…
  • 5
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 6
    トレーニング継続率は7倍に...運動を「サボりたい」…
  • 7
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動…
  • 8
    「人類初のパンデミック」の謎がついに解明...1500年…
  • 9
    トランプ関税2審も違法判断、 「自爆災害」とクルー…
  • 10
    世界でも珍しい「日本の水泳授業」、消滅の危機にあ…
  • 1
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が下がった「意外な理由」
  • 2
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動ける体」をつくる、エキセントリック運動【note限定公開記事】
  • 3
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ女性が目にした光景が「酷すぎる」とSNS震撼、大論争に
  • 4
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体…
  • 5
    25年以内に「がん」を上回る死因に...「スーパーバグ…
  • 6
    豊かさに溺れ、非生産的で野心のない国へ...「世界が…
  • 7
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 8
    首を制する者が、筋トレを制す...見た目もパフォーマ…
  • 9
    「人類初のパンデミック」の謎がついに解明...1500年…
  • 10
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シ…
  • 1
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 2
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 3
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大ベビー」の姿にSNS震撼「ほぼ幼児では?」
  • 4
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 5
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果…
  • 6
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 7
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 8
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 9
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 10
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story