コラム

AI鑑定はアート界の救世主か? ルーベンス作品の真贋論争から考える

2021年10月26日(火)11時45分
ルーベンス作とされてきた「サムソンとデリラ」

1980年にナショナル・ギャラリーが約10億円で購入した「サムソンとデリラ」 PUBLIC DOMAIN

<ルーベンス作とされてきた英ナショナル・ギャラリーの「サムソンとデリラ」をAIで分析したところ、「91.78%の確率で本物ではない」という結果に>

先月末、英国の国立美術館にあたる「ナショナル・ギャラリー」が所有する10億円の絵画が、AIによって偽物と判定されました。はたして、AIはアートの真贋の謎を解決する切り札となるのでしょうか。

問題の絵画は、17世紀のバロック時代の代表的な画家ピーテル・パウル・ルーベンス作とされる「サムソンとデリラ」です。

ルーベンスは「王の画家にして、画家の王」とも呼ばれ、世界で最も成功した画家と言われています。宮廷画家としてイタリアのマントヴァ、スペイン、ネーデルランドなどで活躍し、ヨーロッパ各地の他の宮廷や教会からも絵画の注文が殺到しました。生前に莫大な富を得て、死後も美術史に残る作品を描いた画家として評価され続けています。

いっぽう、「サムソンとデリラ」は、旧約聖書の士師記に登場する物語の一場面を描いた作品です。古代イスラエルの士師(指導者)サムソンは、怪力の持ち主でした。サムソンがデリラという女性を愛したため、敵のペリシテ人はデリラを利用して、その力の秘密を探ろうとします。サムソンは口を閉ざしていましたが、ついに「髪を切らないことが怪力の秘密だ」とデリラに打ち明けてしまいます。サムソンは敵に髪を切られ、両目をえぐられて奴隷にされます。しかし最期は神に祈って怪力が復活し、多くのペリシテ人を道連れにして死んでいきます。

ルーベンスの「サムソンとデリラ」は、サムソンの髪が切られる直前を描いています。デリラの膝枕で安心しきって眠っているサムソンのもとに、老女と男が現れます。老女がサムソンの頭上にロウソクを灯すと、男は今まさにサムソンの髪を切ろうとします。絵画の右側に見える半開きになった扉からは、髪が切られたサムソンを捕縛しようとする兵士たちの姿が見えます。

一部専門家の間では40年前から疑いが

この作品は、ルーベンスが1609年に、後援者であるアントワープ市長ニコラス・ロコックスのために制作したものとされています。1980年にナショナル・ギャラリーがオークションで250万ポンド(現在の価値で約660万ポンド、約10億円に相当)で購入しましたが、当時から一部の専門家の間で偽物である可能性が指摘されていました。

たとえば、ルーベンスの「サムソンとデリラ」をもとにヤーコプ・マータムが彫刻した銅版画作品では、横たわるサムソンの右足はつま先まで描かれています。また、同世代の画家フランス・フランケン二世の絵画「ブルゴマスターロックスの家での宴会」では、マントルピースの上にルーベンスの「サムソンとデリラ」が飾られています。こちらの作品でもサムソンの右足はつま先まで描かれています。けれど、ナショナル・ギャラリーの所蔵品では途切れていて、足の先が見えません。さらに、この絵の色使いの特徴が、「ルーベンスのものではない」と主張する専門家もいます。

akane211026_3.jpg

ヤーコプ・マータムの版画作品 PUBLIC DOMAIN

akane211026_frans.jpg

フランス・フランケン二世の「ブルゴマスターロックスの家での宴会」 PUBLIC DOMAIN

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト。青山学院大学客員准教授。博士(理学)・獣医師。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)、ニューズウィーク日本版ウェブの本連載をまとめた『ビジネス教養としての最新科学トピックス』(2023年、集英社インターナショナル)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)、『AIとSF2』(2024年、早川書房)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ネクスペリアに離脱の動きと非難、中国の親会社 供給

ビジネス

米国株式市場=5営業日続伸、感謝祭明けで薄商い イ

ワールド

米国務長官、NATO会議欠席へ ウ和平交渉重大局面

ワールド

エアバス、A320系6000機のソフト改修指示 運
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ガザの叫びを聞け
特集:ガザの叫びを聞け
2025年12月 2日号(11/26発売)

「天井なき監獄」を生きるパレスチナ自治区ガザの若者たちが世界に向けて発信した10年の記録

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 2
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体を東大教授が解明? 「人類が見るのは初めて」
  • 3
    【クイズ】世界遺産が「最も多い国」はどこ?
  • 4
    【寝耳に水】ヘンリー王子&メーガン妃が「大焦り」…
  • 5
    128人死亡、200人以上行方不明...香港最悪の火災現場…
  • 6
    「攻めの一着すぎ?」 国歌パフォーマンスの「強めコ…
  • 7
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファ…
  • 8
    子どもより高齢者を優遇する政府...世代間格差は5倍…
  • 9
    エプスタイン事件をどうしても隠蔽したいトランプを…
  • 10
    メーガン妃の「お尻」に手を伸ばすヘンリー王子、注…
  • 1
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで墜落事故、浮き彫りになるインド空軍の課題
  • 2
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるようになる!筋トレよりもずっと効果的な「たった30秒の体操」〈注目記事〉
  • 3
    マムダニの次は「この男」?...イケメンすぎる「ケネディの孫」の出馬にSNS熱狂、「顔以外も完璧」との声
  • 4
    海外の空港でトイレに入った女性が見た、驚きの「ナ…
  • 5
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やって…
  • 6
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファ…
  • 7
    老後資金は「ためる」より「使う」へ──50代からの後…
  • 8
    AIの浸透で「ブルーカラー」の賃金が上がり、「ホワ…
  • 9
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙す…
  • 10
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 6
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 7
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 10
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story