「トランプのスピーチ」は計算され尽くした政治工学の産物?
Trump's Speech

「進撃のトランプ」の「口撃」は計算づくか (マルタのカーニバルに登場した山車)Shutterstock
<民主主義という「アゴラ」でトランプ大統領が吠え続けている。その発言はファクト無視の強圧的言辞に聞こえるが、実は大衆心理学が装置された手が込んだもののようでもある。ハーバード大学などに向けた最近の「反ユダヤ主義」発言もその1つだ>
現代のアゴラ
古代ギリシャの都市国家アテナイの市民は、アゴラ(広場)に集まって自由に公共的テーマを議論して決したという(直接民主制)。現代社会において、このアゴラに相当する広場・空間はどこあるのだろうか。古代アテナイと異なり、現代の民主主義社会は間接民主制を採用している。その代表者が集まる場所(例えば、国会など)がアゴラの一つであることは間違いない。
問題はそれ以外のアゴラの出現だ。これまで相応の影響力を維持してきた論壇、マスコミ等の言論空間、メディアに止まらず、新たなアゴラが昨今出現した。SNSとAIだ。
SNSを井戸端会議だと言うのは単なる偏見だろう。井戸端会議に似ていなくもないが、それは一つ一つ閉じられたタコつぼの様な井戸端会議ではなく、全国に、いや世界中に開かれた言論空間であって、むしろ民主主義社会に欠かせないツールとなったと言うべきかもしれない。とは言え、匿名性を梃にして名誉を棄損したり侮辱したり、あるいはフェイクをばら撒いたりする現象が起きやすいことも事実だ。
AIはどうだろうか。AIを利用した民主主義の成功例の一つが台湾のオードリー・タン氏の活躍だが、AIもいいこと尽くめではない。Deepseekに中国共産党のことを尋ねればまともに答えが返ってこない。この世は差異に満ちあふれているが、AIのアルゴリズムはこの差異を見逃さないだろう。それが目的ではないにしても、AIが不平等と差別を助長する可能性を否定できない。
「無意識民主主義」という言葉がある。AIのアルゴリズムは私たちの無意識に訴えかけてくる。為政者がこれを利用するとき、私たちの選択ははたして本当に主体的な選択と言えるのか。それは遠い将来の話ではなく、今現在進行中のことかもしれないのだ。
いずれにしろ、民主主義というアゴラにもルールが必要となる。その中で最も大事なことは、言論の自由だ。この古典的自由は、自由であるだけに個人的な差異やその自由を行使する方法如何によって人もその発言も翻弄される。声の大小が言論の中身の価値を決めるわけではない。権力者がその力を背景に発する言葉は得てして市民の自由を圧迫しがちだ。民主主義社会の言論の自由にはある種の寛容さが求められるが、とりわけ権力者には寛容さが必要だ。
また、事実に関する言明は必ずファクトチェックを経る必要がある。それが民主主義の2番目のルールだ。「評言」と言われる分野の言葉は真偽に関係することなく私たちの深層心理に訴えかけてくる。それだけに、(事実に関係しなくとも)その言葉の妥当性をいろんな観点からチェックする必要がある。この妥当性チェックは民主主義の3番目のルールと言ってもよいだろう。
もちろん、その妥当性をチェックする権威は存在しない、ということが民主主義の3.1番目のルールとなる。それでは社会が混乱するではないかと心配する人は、民主主義社会ではなく権威主義社会を心のどこかで期待しているのかもしれない。民主主義は、私と同じ、つまりあなたと同じ隣人に対するある種の信頼によって成り立っている。社会的混乱を心配する人は、実は個人的な不快を問題にしているということがよくある。