最新記事

BOOKS

忘れられた事件 渋谷区の児童養護施設施設長はなぜ殺されたのか

2022年1月5日(水)15時50分
印南敦史(作家、書評家)
『児童養護施設 施設長 殺害事件』

Newsweek Japan

<犯行に及んだ男は、施設長が我が子同然に支えていた施設出身者だった。事件の背景に横たわる、子供たちを救うはずの制度の不備を指摘する1冊>

『児童養護施設 施設長 殺害事件――児童福祉制度の狭間に落ちた「子ども」たちの悲鳴』(大藪謙介、間野まりえ・著、中公新書ラクレ)の表紙にかかる帯には、笑みを浮かべた男性が男の子を背負っている写真が掲載されている。

児童養護施設の職員と、施設で暮らす子。男の子の顔にはボカシが入っているが、それでも楽しそうに見えるだけに、やがてこの職員が悲惨な事件に巻き込まれると想像するのは難しい。

だが2019年2月25日、渋谷区の児童養護施設でそれは起きたのだった。


 被害に遭ったのは、20年以上にわたって職員として勤め上げ、この4年前から施設長だった大森信也さん(当時46歳)。
 首や胸など十数か所を刺され、搬送先の病院でまもなく息をひきとった。
 凄惨な犯行に加え、衝撃的だったのは、逮捕されたのが、かつて施設で育った20代の男だったことだ。男は、施設を出たあと職を転々とし、事件の直前はネットカフェで寝泊まりしていたという。そして逮捕後、「恨みがあった。施設関係者なら誰でもよかった」と供述。しかし心神喪失を理由に不起訴となり、真相は明らかにならないまま、世間では、他の凶悪事件に埋もれ、"忘れられた事件"となっていった。(「まえがき」より)

著者はNHK報道番組ディレクターと同社会部記者だが、取材を進めていくうちに意外な事実を知ったという。大森さんは犯行に及んだ男(以下、Aと表記)が施設で暮らしていたときだけでなく、退所後も4年にわたって連絡を取り続け、就職の斡旋や住まいの確保などの支援を行っていたというのである。

つまり恨みを買うどころか、Aのことを我が子同然に支えていたのだ。事実、大森さんの下で育った人の多くが、「本当の父親以上に父親のような存在だった」と明かしている。

したがって、「なぜ......」という疑問を拭うことは難しいかもしれない。だが読み進めていくと、それが児童養護施設のあり方と密接に関わっていると痛感することになる。問題は「原則18歳で退所」という制度だ。

ホームレスになる子、風俗で働き始める子、自ら命を絶つ子......

児童養護施設で暮らす子供たちには、虐待や親の病気、死別などさまざまな事情から家族と離れて暮らさなければならない事情がある。だから彼らにとって、施設は我が家に等しい。そして職員は親代わりであり、身の周りのことから精神的なケアまでの支えとなってくれる存在だ。

にもかかわらず子供たちは、18歳を境に施設から追い出され、いきなり社会での自立を迫られる。それまで守られてきていた子たちにとって、いかに困難なことであるかは想像に難くない。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

台湾の頼次期総統、20日の就任式で中国との「現状維

ワールド

イスラエル軍、ガザ北部で攻勢強化 米大統領補佐官が

ワールド

アングル:トランプ氏陣営、本選敗北に備え「異議申し

ビジネス

日本製鉄副会長が来週訪米、USスチール買収で働きか
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 3

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイジェリアの少年」...経験した偏見と苦難、そして現在の夢

  • 4

    「まるでロイヤルツアー」...メーガン妃とヘンリー王…

  • 5

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 8

    日本とはどこが違う? 韓国ドラマのオリジナルサウン…

  • 9

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 10

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 3

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 4

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 5

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 4

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 5

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 6

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中