最新記事

アメリカ

「国民皆保険」導入を拒んだのは「アメリカニズム」だった

2021年2月9日(火)20時10分
山岸敬和(南山大学国際教養学部教授)※アステイオン93より

新型コロナウイルス患者の急増により病院の廊下で処置を受ける患者(カリフォルニア州、2021年1月12日) Mike Blake-File Photo-REUTERS


<先進国の中で最悪レベルの新型コロナウイルス感染者数と死者数を出しているアメリカ。その背景には、公的医療保険制度への抵抗がある。なぜ国民皆保険を拒むのか。その精神的支えであるアメリカニズムとは何か。論壇誌「アステイオン」93号は「新しい『アメリカの世紀』?」特集。同特集の論考「アメリカニズムと医療保険制度」を3回に分けて全文転載する(本記事は第1回)>

はじめに

新型コロナウイルス感染症が世界的に拡大する中で、先進国の中でアメリカの反応は例外的であった。多くの国で感染拡大の第一波をある程度抑えることに成功した一方で、アメリカは(編集部注:2020年)3月中旬にニューヨーク州で感染爆発が起こって以降各地に飛び火し、3月末には感染者数は世界一となった。死亡者数は、4月にはベトナム戦争、6月には第一次世界大戦のアメリカの戦死者数を上回ったと報じられた。

なぜアメリカはこのような状況に陥ったのか。トランプ政権が専門家から警告が出ていたにも拘わらず初期対応を誤ったことや、経済優先のために焦って早期に制限解除する方向に舵を切ったことなどが批判されている。しかし医療制度の問題として、アメリカの医療保険制度がこのようなパンデミックに有効に対処できなかったということが指摘される。アメリカは未だに皆保険がない例外的な先進国である。2018年の無保険者は人口の8.5%を数える。

20世紀初頭からのアメリカの医療保険政策史は、皆保険導入の試みが失敗し続けた歴史であった。2010年にはオバマケアと呼ばれる改革が成立したが、未だ皆保険には至っていない。皆保険導入が失敗してきた背景には、反対するアメリカ医師会や保険業界団体などの政治的影響力がある。しかしより重要な要因は、改革への動きが強まる度にアメリカの伝統的価値――アメリカニズム――がその障壁となってきたということである。

社会学者のセイモア・リプセットは、ヨーロッパ諸国や日本と異なり、アメリカは「信条(creed)」によって形成され発展してきた国であるとする。それを支える伝統的価値は、個人の自由を尊重し、反エリート、反国家権力の色彩が強いとする。そしてアメリカがその他の国と本質的に異なっている、異なっているべきだという考えをアメリカ例外主義と呼ぶ。その考え方は、しばしば他の国より優れているという考えにつながると同時に、対外政策と国内政策にも大きな影響を及ぼす。

大統領選挙で常に医療政策が重要争点になるのは、医療政策がこのアメリカニズムに深く関係しているからである。個人がどのように生きて、どのように死ぬか、その選択を自分自身で行なう、これが個人の自由の原点であると言えよう。連邦政府が皆保険を導入するということはこの伝統的価値に抵触する。なぜなら皆保険は連邦政府の医療現場や医療経済における権力を増大させ、個人の選択に政府が関与するからである。アメリカは信条で形成された国家であるがゆえに、医療政策が国家のアイデンティティをめぐる議論と直結し激しい議論を巻き起こすのである。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米ホリデー支出、パンデミック以降で最大の落ち込みか

ビジネス

再送中国サービスPMI、8月は53.0 15カ月ぶ

ワールド

豪GDP、第2四半期は約2年ぶり高い伸び 消費支出

ワールド

タイ与党、下院解散を要請 最大野党がライバル首相候
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:豪ワーホリ残酷物語
特集:豪ワーホリ残酷物語
2025年9月 9日号(9/ 2発売)

円安の日本から「出稼ぎ」に行く時代──オーストラリアで搾取される若者たちの実態は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニングをする女性、異変を感じ、背後に「見えたモノ」にSNS震撼
  • 2
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体」をつくる4つの食事ポイント
  • 3
    「見せびらかし...」ベッカム長男夫妻、家族とのヨットバカンスに不参加も「価格5倍」の豪華ヨットで2日後同じ寄港地に
  • 4
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シ…
  • 5
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が…
  • 6
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動…
  • 7
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 8
    Z世代の幸福度は、実はとても低い...国際研究が彼ら…
  • 9
    トレーニング継続率は7倍に...運動を「サボりたい」…
  • 10
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 1
    東北で大腸がんが多いのはなぜか――秋田県で死亡率が下がった「意外な理由」
  • 2
    1日「5分」の習慣が「10年」先のあなたを守る――「動ける体」をつくる、エキセントリック運動【note限定公開記事】
  • 3
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ女性が目にした光景が「酷すぎる」とSNS震撼、大論争に
  • 4
    50歳を過ぎても運動を続けるためには?...「動ける体…
  • 5
    25年以内に「がん」を上回る死因に...「スーパーバグ…
  • 6
    豊かさに溺れ、非生産的で野心のない国へ...「世界が…
  • 7
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害…
  • 8
    「怖すぎる」「速く走って!」夜中に一人ランニング…
  • 9
    首を制する者が、筋トレを制す...見た目もパフォーマ…
  • 10
    上から下まで何も隠さず、全身「横から丸見え」...シ…
  • 1
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 2
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 3
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大ベビー」の姿にSNS震撼「ほぼ幼児では?」
  • 4
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 5
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果…
  • 6
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 7
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 8
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 9
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 10
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中