最新記事

研究

丸山眞男研究の新たな動向

2020年9月9日(水)17時10分
苅部 直(東京大学法学部教授)※アステイオン92より転載

また、ベストセラーになった『現代政治の思想と行動』増補版(一九六四年)に見える丸山の言葉、「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける」、また「他者をあくまで他者としながら、しかも他者をその他在において理解すること」という二つの有名な言葉について、清水は遺された草稿類を用いながら、そこにこめられた意味を発掘する。戦後民主主義は「占領民主主義」にすぎないといった、新たな「戦後神話」に対する批判意識が、丸山に一種の啖呵を切らせたのが前者であり、後者の背景には、カール・マンハイムの言葉を、戦争協力者として投獄中のカール・シュミットによる要約を通じて理解するという、思想史上の興味ぶかいドラマが隠れていたのである。

これまで近代日本の思想史については、個々の思想家のテクストの背後に働いている思索の軌跡や、ほかの思想との対話に関して、草稿や書簡を通じて綿密に明らかにするような研究が、比較的に乏しかった。福澤諭吉、中江兆民、内村鑑三、西田幾多郎といった顔ぶれについては、そうした次元での研究史が展開していると言えるだろうが、一般には多くない。研究者の層が薄いせいもあるが、草稿や書簡までまとめて保存され、整理・公開されている場合が少ないという事情も影響しているだろう。

そうした状況のなかで、丸山眞男の場合は貴重な例外であるとも言える。丸山本人が物を捨てない性格であり、しかも残った資料がすべて寄贈されたおかげで、丸山が研究に用いた資料のコピーや、構想を記したメモの断片、さらには論文公刊のさいの校正刷に至るまで、さまざまな資料を見ることができ、一つのテクストを執筆する過程にあった思考の流れをたどるのを助けている。

また丸山自身の書いたものと、蔵書や書簡とを照らし合わせることを通じて、知識人どうしの交流や、さらには同時代の言論空間のあり方を再現することも可能である。丸山眞男に関する研究は、さらに戦後思想史の広い見取り図を新たに描きあげる作業につながる可能性を、いまや含んでいるのである。

苅部 直(Tadashi Karube)
1965年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。専門は日本政治思想史。著書に『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫)、『丸山眞男』(岩波新書、サントリー学芸賞)、『鏡のなかの薄明』(幻戯書房、毎日書評賞)、『「維新革命」への道』(新潮選書)、『基点としての戦後』(千倉書房)など。

当記事は「アステイオン92」からの転載記事です。
asteionlogo200.jpg


【関連記事】
すばらしい「まだら状」の新世界──冷戦後からコロナ後へ
文部省教科書『民主主義』と尾高朝雄


アステイオン92
 特集「世界を覆う『まだら状の秩序』」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス

(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)

20200915issue_cover150.jpg
※画像をクリックすると
アマゾンに飛びます

9月15日号(9月8日発売)は「米大統領選2020:トランプの勝算 バイデンの誤算」特集。勝敗を分けるポイントは何か。コロナ、BLM、浮動票......でトランプの再選確率を探る。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

デンマーク、ロシア産原油輸送の「影の船団」阻止を検

ワールド

ロシア拘束の米記者、スパイ容疑の審理非公開で実施 

ワールド

NATO加盟20カ国超、24年に国防費2%目標達成

ワールド

米印、貿易や産業協力の障壁巡り対応へ 「技術流出防
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:サウジの矜持
特集:サウジの矜持
2024年6月25日号(6/18発売)

脱石油を目指す中東の雄サウジアラビア。米中ロを手玉に取る王国が描く「次の世界」

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    新型コロナ変異株「フラート」が感染拡大中...今夏は「爆発と強さ」に要警戒

  • 2

    森に潜んだロシア部隊を発見、HIMARS精密攻撃で大爆発...死者60人以上の攻撃「映像」ウクライナ公開

  • 3

    ニシキヘビの体内に行方不明の女性...「腹を切開するシーン」が公開される インドネシア

  • 4

    中国「浮かぶ原子炉」が南シナ海で波紋を呼ぶ...中国…

  • 5

    水上スキーに巨大サメが繰り返し「体当たり」の恐怖…

  • 6

    なぜ日本語は漢字を捨てなかったのか?...『万葉集』…

  • 7

    中国経済がはまる「日本型デフレ」の泥沼...消費心理…

  • 8

    ジョージアはロシアに飲み込まれるのか

  • 9

    この「自爆ドローンでロシア軍撃破の瞬間」映像が「…

  • 10

    長距離ドローンがロシア奥深くに「退避」していたSU-…

  • 1

    ニシキヘビの体内に行方不明の女性...「腹を切開するシーン」が公開される インドネシア

  • 2

    接近戦で「蜂の巣状態」に...ブラッドレー歩兵戦闘車の猛攻で、ロシア兵が装甲車から「転げ落ちる」瞬間

  • 3

    早期定年を迎える自衛官「まだまだやれると思っていた...」55歳退官で年収750万円が200万円に激減の現実

  • 4

    米フロリダ州で「サメの襲撃が相次ぎ」15歳少女ら3名…

  • 5

    毎日1分間「体幹をしぼるだけ」で、脂肪を燃やして「…

  • 6

    この「自爆ドローンでロシア軍撃破の瞬間」映像が「…

  • 7

    カカオに新たな可能性、血糖値の上昇を抑える「チョ…

  • 8

    「クマvsワニ」を川で激撮...衝撃の対決シーンも一瞬…

  • 9

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃が妊娠発表後、初めて公の場…

  • 10

    森に潜んだロシア部隊を発見、HIMARS精密攻撃で大爆…

  • 1

    ラスベガスで目撃された「宇宙人」の正体とは? 驚愕の映像が話題に

  • 2

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 3

    ニシキヘビの体内に行方不明の女性...「腹を切開するシーン」が公開される インドネシア

  • 4

    ウクライナ水上ドローンが、ヘリからの機銃掃射を「…

  • 5

    「世界最年少の王妃」ブータンのジェツン・ペマ王妃が…

  • 6

    接近戦で「蜂の巣状態」に...ブラッドレー歩兵戦闘車…

  • 7

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃の「マタニティ姿」が美しす…

  • 8

    早期定年を迎える自衛官「まだまだやれると思ってい…

  • 9

    ロシアの「亀戦車」、次々と地雷を踏んで「連続爆発…

  • 10

    我先にと逃げ出す兵士たち...ブラッドレー歩兵戦闘車…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中