「私は大嫌い」「デミ・ムーアが最高の当たり役」...カンヌでも賛否両論、映画『サブスタンス』は良作か駄作か?
The Substance Lacks Any
『サブスタンス』が傑作になる可能性はあった。私がいら立ちを覚えたのは、そのコンセプトではなく表現手法だ。
コラリー・ファルジャ(Coralie Fargeat)監督のアプローチに彫刻の繊細さは見られず、鉈でぶった切るように素材を扱う。
雑な表現手法に目をつぶるとしても、何を伝えたい映画なのか分からない。社会風刺なら、その矛先はどこか。抑圧的な「美の基準」を風刺しているようだが、美容業界やSNSはほぼ出てこない。
エンターテインメント業界の描き方もおざなりで、エリザベス(と、後にはスー)の上司が1人で業界全体を体現する。性犯罪で服役中のあの大物プロデューサーを安易に連想させるハーベイという名のテレビプロデューサーだ。
ハーベイ(デニス・クエイド、Dennis Quaid)は女をさげすむゲス男であることがすぐに露呈し、その後はうっとおしいだけの存在と化す。同様に白い近未来的なバスルームでエリザベスとスーが入れ替わるシーンも、回を重ねるうちに同じに見えてくる。
私は『サブスタンス』が大嫌いだが、『プロミシング・ヤング・ウーマン(Promising Young Woman)』のような昨今の「フェミニスト・サスペンス」と違って、本作に害はない。
意図したものと逆のメッセージを伝える結果にはなっていないし、社会が女性に押し付ける自分の体への不快感についてのメッセージは、実にタイムリーで切実だ。
問題は、社会の押し付けを批判するための表現があまりに押し付けがましいこと。ファルジャの演出は観客に、自分で想像を巡らし、意義付けをする余地を与えない。